。冷えびえするような空気が、この山奥にみちていた。遠い山の頂には、白い雲がはかれたようになってかぶさっていた。
楯井さんは、一寸あたりを見まわして、昨夜の樹の所へ行った。そして株の切口の所を神経質にこま/″\と見入った。切株は雨にぬれてうす黒くしめっていたが、しかし其他には何の変ったこともない。楯井さんの眼には、青白いかび[#「かび」に傍点]のような色が株の根本まで印されているのが見当って、少し驚いたが、すぐこれはどんな樹にでもあるものだという事に気づいた。実際、どんな樹にでも北の方に面した皮には、苔のようなものが幹の上の方から根にかけて、一直線に生じている。それは光線に当らない為めに生じたもので、必ず北に面しているので山や林で方角を失った者が、この苔を見て方角を知ることさえあるのであった。
楯井さんは、一度目の樹の株二度目の樹の株三度目の樹の株とくわしく調べるように見てまわったが、別に目立って変ったこともない。林の上の方からは、日が上ったと見えて急に赤い光りがさして来たので、あたりがまたきら/\とはっきり動き出したようであった。楯井さんは静かに小屋に入って火をたき初めた。その日は、非常にいゝ天気であった。楯井さんは、やはり汗をながして開墾にいそがしかった。其夜は何事もなかった。
それから三日目の夕方であった。全く世の中に到底この様な事があろうとは思われない程、気味の悪い物凄い事が、この小屋を襲った。それは楯井さんの神経の働きでも妄想でもなかった。それは楯井さんにも、楯井さんのおかみさんにも、長男の十二才になる慎造にも、明らかに其の事がわかったのであったから。
夕方、一家のものが、一日の劇しい労働につかれて日が暮れると小屋に戻って来た。そして、揃って夕食を終えて、二人の小さい子供は、まだ膳の片付もすまないうちに、もうごろ/\と炉ばたのむしろ[#「むしろ」に傍点]の上にうたゝね[#「うたゝね」に傍点]を初めていた。
楯井さんは黙って炉の火をいじったり、薪をくべたりなどしていたその瞬間、全く皆《みん》なの心が申し合せたように、しんみり[#「しんみり」に傍点]していた。なんとなくぬけ出すことの出来ないような沈黙のなかにいた。そして親子三人は、何かの不思議な物音、物音というよりもかすかな遠い幽鬱な響を耳にした。三人の心に冷い総毛立つような気味悪さが流れ込んで来た。楯井さんのおかみさんは、楯井さんの側へ近よった。
三人とも少しも動かなかった。そして小屋の入口を見た。入口には実際殺された嫁さんの姿が、煙のようにしかし正しく立った、小屋の入口の代用として上からぶら下げてあるむしろ[#「むしろ」に傍点]を手で横にあけながら、青白くすきとおるような嫁さんの顔が、はっきりと皆の顔にうつった。幻影ではない。妄想ではない。慥かにあの嫁さんの姿である。
三人は驚くよりも、むしろ悲しかった。約一分間の後その姿は戸口に見えなかった。楯井さんは、急に黙って立上った。そして小屋の片隅に仏壇がわりに自分で吊った棚へ火をともした。棚は煙ですゝけて、やはりすゝけ切った位牌らしいものがのっていた。
楯井さんは、そこに火をともしたが、別に両手を合せもしないで、静かに戸口の方に行ったが、その右手には何か棒切のようなものを持っていた。
楯井さんは、入口のむしろ[#「むしろ」に傍点]を開いて外をのぞいた。しかし彼の眼には彼の心が感じたようなものはうつらなかった。楯井さんは二三歩ずつ進んだ。そしてあたりを見まわしながらまた二三歩歩いた。楯井さんは自分の手に棒切を握っているのに気付くと、自分で恥かしそうにそれを投げた。そしてまたあたりを見まわした。楯井さんは非常に不安でならなかった。自分が何かの因果をうけたように、心苦しくそして淋しかった。楯井さんは、自分の家も自分の存在も忘れたように、何かの不思議な心につゝまれた。彼れの心は闇の中を辿っているようであった。しかし楯井さんはまた歩き出した。そしてあの樹の株の所へ行った。彼は何かその樹の株が、不思議の元であるまいかと考えて、それを究めようと思った。
楯井さんは、樹の株の前の所まで行ったけれどもまた戻って来た。そしてあとへ引かえしながら、小屋の入口をみた。彼は今の不思議なものゝなにかのつながりを見たいように思った。そしてその不思議なものは、まだ必ず自分の小屋の近くをうろついているような気がした。そう考えると楯井さんは恐ろしいような気がしながら、便所小屋の前のせまい所をぬけて、小屋の裏の方からグルリと廻って、また入口の所へ来た。そして小屋へ入って行った。炉のそばには、楯井さんのおかみさんと慎造とが、不思議そうな顔をして楯井さんの入って来たのを見た。楯井さんは炉の前に来てぼんやりと、たった一言
『明日《あした》は、皆で
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