あったわけではない。彼は今日こそは、毎日/\考えぬいたことをこの美しい嫁さんに打あけて、自分の思いを遂げたいと思って、とう/\殆んど夢中で、ながい間胸に畳んで居た、嫁さんに対する恋をうちあけて了った。そしてその時はもはや万吉は、意識の明瞭を欠いていた。いざとなれば飛びついて、自分の愛して居るものを、どうにでもしかねまじき勢で、熱心に、全くすがりつくように、また憐みを乞うものゝように嫁さんに対して迫まった。万吉の眼は血走って、すべての血液が両手と頭にだけ溢れてしまって、他の五官は働きを失ってしまったかのようであった。それでいて、青い顔がより以上青ざめて、唇の色は土のように黒く、下唇のぶる/\ふるえるのを噛みしめながら、口のかわきを時々のみこむ唾液でうるおして、心から嫁さんに肉迫した。
嫁さんは、この万吉の要求を頭から拒絶した――というよりは殆ど正気とは思えないので相手にしなかった。しかしじょうだん半分とも思えなかったので思わずぞっとした。とその一瞬間――のぼせ上って血眼になっている万吉の眼は、グル/″\とまわってあたりを見た。――そして不幸にも彼の眼は土間の片隅に置いてあった、短い手斧の先に吸いつけられた。彼はそれを取るより早く振りあげた。万吉はもうその時発狂していた。
急にかぶさって来た、重苦しく恐ろしい凄い憤怒の情の為めに、万吉は立上って何物にかぶつかって砕けてたおれなければならなかった。嫁さんは飛び下りて庭に走った。が、万吉の速度に敵すべくもない。彼の振りかざした斧は嫁さんの右の肩の上に落ちた。嫁さんは悲鳴の下にそこに倒れた。その声に驚いて近所で遊んでいた子守は、子供を負ったまゝ走って来た。寝ていた老人《としより》も起きて出た。万吉は猛獣のように、一人の老人と子供を負った子守女とを追いまわして、十二三間はなれた畑の中で、すべてを斃してしまった。
万吉は、そのまゝ斧を投げすてゝ、この新開地の裏道から川にそうて逃げた。
翌朝はやく警察の役人と、検死が来た、そして楯井さんは、兎に角死体を丁寧に棺に納めて、延徳寺のお寺さんの来るのを待った。楯井さんは、ぼんやりしてしまっていた。
嫁さんは、延徳寺の熱心な檀家の一人であった、そして彼女はいつも口ぐせのように、一度は延徳寺にお詣りをしたい/\と言っていたこと等を思出した。そうして延徳寺建立の時などは、率先して大きな寄進をした。
お昼すぎの二時頃延徳寺のお寺さんは来た。噂ではこのお寺さんは、学問があるけれども、非常に、やまし[#「やまし」に傍点]気のある人だという事であった。お寺さんは三十七八の頭の長い人で、顔中、細かい皺がよっていながら、つやつやしたいゝ色の膚の人であった。
お寺さんのお経が終わってその夕方葬式をすませた。村のせまい墓所に四つの新らしい墓標が加った。
延徳寺までは六里もあるので、其夜お寺さんは、此の家に泊った。新開地のことなのでいろ/\の人が集まって、お寺さんを囲んでさま/″\仏様の話し等をした。お寺さんは、こんなことを云った。
丁度、一昨夜の十二時頃、大変ひどい音がして寝られなかったので、朝早く御堂に行って見ると、御堂の前の畳が二畳敷ほどの大きさ一ぱいに、生々しい血がひろがっていたと云った。聞いてた人々は、
『嫁さんがお寺まいりを、したい/\と云って一度もお詣りが出来なかったので、きっと嫁さんのたまし[#「たまし」に傍点](魂)が知らせに行ったのだ。』
と云って、しみ/″\した顔付をした。
楯井さんは、嫁さんの亭主が帰って来るまで、丁度五日の間この淋しい家に留守をしていた。亭主は帰って来ても、別に悲しんだ様子もなかったが、当座一週間ばかりは、毎日々々墓参りをしていた。
三
楯井さんは、六日目で再び自分の開墾地の堀立小屋に帰った。楯井さんは、あのお寺さんの話しを道々気にしながら、不思議な事もあるものだと考えていた。
楯井さんは、開墾地に帰って来ても、別にあの惨虐な物語りを口にしなかった。けれども楯井さんは心の中で様々なことを考えていた。しかし、気の早いせっかちな楯井さんのおかみ[#「おかみ」に傍点]さんは、やはり女だけにその話しを待ちかまえていたように楯井さんを迎えたのであった。そして、無理矢理夫からその話しを少しでも聞きとっては、思出したように涙を流した。楯井さんは、重々しい調子で妻の問に対して答えるとすぐ口を閉じて、自分の考えたことや思出したことなどは少しも云わなかった。
『一番可哀想なのは、おなか[#「おなか」に傍点]さん(嫁さんの名)と赤《あか》(赤ん坊)だ。あんないゝ嫁さんもないもんだ。』
と、おかみ[#「おかみ」に傍点]さんは、自分が四ヶ月も世話になって、いやな顔どころか、何から何につけて気がきいて親切にめんどう見
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