からはなれた、大きな自由な安心な、たのしい箱のなかへでも入ったようなつもりで、この山奥の生活をしているのであった。毎日山鳥の啼く音《ね》鶯の囀る声、雉子などが樹から樹へ飛びうつるのを、何の慾心なしに見聞《みきゝ》している。そして絶えず新らしい木の香や、土の匂が彼にさわやかな清い心を与えているのであった。
楯井さんが、どうしても信ずることが出来ないと思いながらも、出かけたのはもう日の暮れ方であった。ほの暗く一帯に暮れて行く荒地の行く道には、そここゝに笹の根や木の株、草や木の枝などを焼く火が、はっきりと見えて、山道とはいうものゝ少しも淋しくない。夜中《よじゅう》ごみ焼をしている人だちは、火影に顔をまっか[#「まっか」に傍点]に染めながら、長いレーキ(ごみさらい)で、火をつゝいたりごみ[#「ごみ」に傍点]をくべたりしていた。こんな所へ通りかゝると、楯井さんは、
『お晩は、』と云った。(『今晩は』の意である)すると彼方でも、
『こんなに遅くどこさ行きなさるかね。』
と、きっと聞いた。彼等には、夜にかけてすた/\と一人で歩いている彼が不思議に思われたのであった。楯井さんは、そう聞かれるといつも不意を喰ったように、返事のしように困った、
『新開地の山崎の家に、非常なことが出来てこれからそこさ行くんです。』
と、ようやく答えると、そのまゝ彼は通りすぎた。楯井さんは、内気な方ではあるけれども、度胸のすわった人である。そして日清戦争の時従軍したということで、どことなく落著いたような様子をしていた。
楯井さんが、新開地へようやく著いたのは夜も九時近かかった。それに山崎の家のある所へ出るには、どうしても手塩川を渡らなければならないので、河|彼方《むこう》にある渡船場の人を呼ぶには、よほど大きな声を出さなければならなかった、それに手塩川はこの辺に来てかなり河幅を増していた。彼は河岸の樹にぶらさげてある合図の木を、ガタン/\と力をこめて一心にたゝいたり、また時々は手をやすめて、オーイ/\、と呼んだりした。うすぼんやりしたような夜で、急な河の水音ばかりが、はげしく強く耳に入った。楯井さんは、いま自分が行こうとしている所の、惨虐な事件のこと等《など》は、少しも考えられなかった。ふと頭に思浮んでも物凄い心持は少しも起らない。彼は、河の水が時々ちらり[#「ちらり」に傍点]、ちらり[#「ちらり
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