母が居ればこそ、生きてゐられるのだし生きてゐるのだ。お葉はいま不意に心弱くもふさがつて來た胸を壓《おさ》へて、火鉢の灰をかき上げた時、母の聲が靜かに言つたのである。
「初めて解つたらう。他人が入《はひ》るとつらいといふ事はそこなのです。お母さんだつてお前が丈夫だつたら何の氣兼ねもなかつたかも知れない。そして死んでしまつてもよいのだつた――。」
お葉の涙はうつむいたままあふれ出たのである。そして母の爲めに生き、子の爲めに生きるといふ、便りない淋しさを考へたのであつた。私は三十三に死ぬ。しかし母親はいつ奪略されるか解らないのだ。お葉は涙の絶えないのを感じた。火鉢の前に頸《くび》をおとして、母親のやがて帶とき着物をぬぐのを知つてゐたのである。
「朝のうちは人がまゐりませんから、御ゆつくりお入り下さいませ。」
頭の上に女の聲が聞えて、素足の女がひたひたと前を通つた。お葉は漸く頭を上げて壁によつた。冷たい姿見のなかに、銀杏返しの根を落した涙のあとの白い女が、底深く沈んだやうに、少しも動かなかつたのである。
[#地から1字上げ](大正三年五月「新小説」)
底本:「現代日本文學全集 85 大正小説集」筑摩書房
1957(昭和32)年12月20日発行
入力:小林徹
校正:野口英司
1998年8月11日公開
2005年12月28日修正
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