淋しかつた。襖《ふすま》を開け放した彼女の座敷に、ほの白く新らしい箪笥が見えて、鏡臺の鏡が遠い湖の表のやうに光つてゐるのであつた。お葉はその時かすかによせて來る蚊のうなりを耳にしながら、現《うつつ》ともなく行末のことに思ひふけつたのである。
 その時彼女は夢のやうな死を考へた。空のやうに美しい死がお葉の現《うつつ》に見る行末だつたのだ。お葉の心は清かつた。しかし清いものは淋しい。彼女の膝の關節の水のしみ入るやうな痛みは、その時丁度快い刺戟のやうに、茫然と開いてた瞳の中に、涙をみなぎらしてゐたのである。
 お葉はなほ臺所に腰をかけたまま、その當時のことを考へて見た。そして靜かに瓦斯の火を見つめてゐたが、いまにも誘はれ易さうな涙は容易に瞳をうるほさなかつた。
「眼のよい子だつたねえ、そして髮の毛の莫迦《ばか》に黒い――。」
 お葉の兄は失つた子のあとを追ふやうに、時々|茫然《ぼんやり》とそんな事を言つた。
「本當に私などもお前たちよりは孫の方をどんなに待つたかしれないのだけれども――定めて孫が來たならば、かうだらう、ああだらうと毎日言つてたんだが、またお葉がかうして坐つてゐたならば、きつと後にまはつて、おんぶおんぶつてせめやしないかと、思つたりして――。」次いで母親は獨言《ひとりごと》のやうに兄の頭と火鉢の側のお葉の姿とを見くらべて眼を赤くしたのであつた。お葉は、その時そつと次の間に行つて雜誌の頁を繰つたのである。併しそれについて兄は矢張り感慨深いやうに言つたのであつた。
「本當に利口な子だつたがなあ。」
「あんまり利口すぎたから死んだんでせうよ。」
 嫂の聲は歩く足音と共に、無雜作に言つたのであつた。
 お葉の兄はやがて旅に出た。
 そしてとつぷりと暮れた冬の靜かな夜、家の人は連れそつて、近所のお湯に出かけたのである。お葉は一人|炬燵《こたつ》に入りながら、夕方外を歩いて來たことを考へた。彼女がとある角を曲る時だつた。
「割にいい風姿《なり》をしてるわね。」といふ聲が耳に入つたので、鋭くお葉は杖をとめて見返つたのであつた。角には黒いポストがあつて、その後の人影はさだかでなかつた。
 彼女は夕闇の間に少時《しばし》立停つて、普通着《ふだんぎ》の儘で出掛けて來た自分の汚れた銘仙の着物を見つめたのであつた。そして其儘歩き出し乍ら、まだまだいい風姿をして歩かなければならないと云ふ樣なことを思つたのである。世間の人は松葉杖などをついて歩くやうなのは乞食《こじき》かなにかでなければないのだらうと思つてゐるのだらう。「見すぼらしい風姿《なり》をしてはならない。」とお葉はその時思ひながら、少しも悲しいことはなかつたのであつた。今お葉はその事を考へて見たが、いい着物を着て歩かうと思つたことが、さ程淋しい心強い反抗でもなんでもなかつた。折角着かへた着物も、すぐ杖のために脇の下が切れて、膝がぬけるのが目に見えてゐた。時々薄くなつてゆく脇の下の着物の地を默つて見てゐるのは、お葉にとつては淋しい言ひ樣のないかすかな絶望であつた。「私には第一歩くといふ事が不可《いけ》ないことなのだ。そして一番悲しいことなのだ。」
 もう歩かないがいい、最《も》う決して外に出るなとお葉の良心は命じた。しかし良心の命ずることは常に淋しい。そして何の反抗もない悲しみが迫つて來るのだ。
 お葉の心は今ふと悲しくなつて來て、見知らぬ浴場に集まつて、露骨に身體をみがき合ふ男女のことを思ひながら、いつ暗い湯殿の中に、自分のかなしい肉體をなつかしく見ることが出來るであらうかと思つた。そしてまた前の浴場の若いおかみさんの細い眼のいろなどが、物なつかしく浮んで來たのである。四五日たつても新らしい家に風呂は買はれなかつた。お葉の肌には赤黒く垢が浮いて來た。それで彼女は寒い朝早く、母親と二人近所の浴場に行つたのである。
「いらつしやいませ、どうぞ最う三十分|許《ばか》りお待ちなすつて下さいませ。」
 奧から出て來た若い男が丁寧に言つて、眞鍮《しんちゆう》の火鉢を持つて來て呉れた。
「お寒う御座います。どうぞお暖《あた》り下さいませ。」母子《おやこ》は靜かに水のたれる音を耳にしながら火鉢によつた。壁にかけてある芝居のビラなどを、お葉は靜かに見上げながら、母親の顏をぢつと見たのである。彼女はささいの事にでも、生きて行く悲しみを思ふ、生きるといふ事は悲しむといふ事であつたのだ。
 お葉は寒い朝々を、母親と共に家が新らしくなると共に、見しらぬ浴場をめぐつて歩かねばならないのだらうかと、ふと感傷的な事を考へて、母親の顏を見ながら、この年老いた母親が、必ず自分より先に死ぬであらうといふことを思つて、胸が迫つたのである。そして自分のすべての強さも、生きてゆく醜くさも、この目の前にゐる母親の爲めであると思つた。
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