になつたの。」
「えゝ。」お葉は淋しく肯《うなづ》いたのである。
「おとなしく待つてて下さいね、いまに迎ひに來ますから。」
 看護婦は裳《すそ》をひるがへして走つた。
 やがて一時といふ時に輸送車は彼女を遠い遠い細い廊下の奧に引き去つた。それからお葉はいま迄切り取つた白い爪を見ることが出來ないのである。あの爪はのびたであらうか。あの爪はいまどこか靜かな所で、花いろに匂つてゐるやうに思へる。
 お葉はやがて、新らしい浴場の若い無智なおかみさんと親しくなつたのである。そして彼女が人ない朝の湯ぶねのなかに浸つて、新たに來る人を追手のやうに恐れてゐるのを慰めた。そしてお葉の爲めに泣いたのである。けれどもまたお葉が浴衣をぬいで友禪の長襦袢に身を包んだ時、無智な女は番臺によつてその幸福を羨んだのである。
 お葉はひそかに浴場を出るのだつた。もし人が彼女の浴場から出て來たのを見てその肉體の缺陷を知り、如何にして入浴するかと怪しみ想像することを恐れたのである。そしてお葉が狹い路次にさしかかる時に、折々|跛《びつこ》の年老いた俥夫《しやふ》に會ふのであつた。
 彼女はその時あまりに哀れな世の中だと思つた。そしてその老いた跛が次第に彼女を見て、同じ不具者の哀《あはれ》みを乞ふやうな同情を強ひるやうに、笑顏を見せるやうになつた時、お葉は悲しかつた。世の中の人が類を持つて集まるやうに、自分は不具者の中にのみいたはられて、睦《むつ》ましく暮さなけりやならないといふのは堪へられないことだ。そしてそれが什※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に慘《みじ》めで悲しいことだらう。お葉はすべて自分と等しく肉體の缺陷ある人を目に寫さないことを祈つたのである。
 鏡を見ずに暮される人は幸福である。人は自分の姿を知る時、初めて世の中の悲しさを知る。お葉は出來るならば、この宇宙に癈疾者の自分一人であることを考へた。自分の姿を見するものなかれ。またお葉の姿によつて、自分と等しい悲しみを覺えるもののないことを祈つたのである。
 やがてお葉の家はまた移らねばならなかつた。そして三年の間別れてゐた兄や嫂《あによめ》と逢ふのであつた。
「いろいろお世話樣になりまして――。」
 お葉は親しんだ湯屋の若いおかみさんに別れをつげて、奧まつた平屋の靜かな家に行つたのである。久し
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