ルガンの音を耳にしながら、細道を一人かなしく家に歸つたのである。どんなに醜くなつても、生きてゆかなけりやならないのだらうか? いま自分の生と自分の肉體を最《もつとも》美しく終らせたいと思ふは唯一つそこに死があるばかりである。お葉は矢張り死ぬのであつた。
 また畸形の肉體に盛られた心は、矢張り畸形にしか育たない。彼女は精神の畸形なる天才や狂人のことを考へたのであつた。けれども天才は現世に幸福でなかつた。狂人は如何に幸福であらうとも、肉身のものの苦痛をどれだけ増さねばならぬかと云ふことが解らない。そして醜い肉體は、世の中に存在してゐるのだ。お葉は醜いことを見たくも知りたくもない。死は清く美しい、そして永遠に尊い。お葉は靜かに三十三の死を思つて、微笑んだのであつた。
 水に梳《くし》けづられた髮が青空の下に輝いてゐた時、彼女は杖によつて道を歩みつつ、その杖が新らしく黒く艶やかに塗られてあることを見て、安心したのであつた。自分のすべてを習慣と經驗とによつてよごしたくない。古くしたくない。
 お葉は松葉杖の古きによつて、わが癈疾のいにしへをしのぶことを悲しむ。彼女が、いま五年後にその災《わざはひ》を思ふ時、痛みは古く思出の淡いことを恐れた。自分の災は新らしい、自分の痛みは新らしい。
 お葉はいつか青山の墓地などを車で通つた時、よごれた繃帶を卷きつけた白木の松葉杖に身を持たせて來た癈兵を見たことを思ひ出したのである。
 彼女は縁に出て手の爪を切つた。そして足の爪を切つた時に、いづこにか一脚の足の爪が櫻いろに美しく切られて、花のやうに置かれてあることを考へた。それは空の美しい日であつた。開かれた窓に木の葉が散つてゐた。お葉はベッドの上に起きなほつて、その前日痛める身體を清める爲めに、紫いろの湯に浸されたことを考へた。お葉はその時清らかに終るべき身の靜けさに、剪刀《はさみ》を取つてすべての不潔を切り取つたのである。手の爪は美しく取られた。やがて彼女は繃帶に卷かれて、わづかに五本の指先のみ出てゐる右足の白い爪を、靜かに切り取つたのである。そこに嘆きもなく再び見ることなき瞳を、茫然と開いてゐたのである。
 その時白いお茶の花を瓶にさして呉れた看護婦が、銀いろの剪刀《はさみ》を持つて來て、ドアを押した。そしてお葉の爪を見たのである。看護婦は驚いたやうにやや誇張して、
「まあ、綺麗、おとり
前へ 次へ
全15ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
素木 しづ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング