。
お葉がすべてのバンドを解いて、義足を露骨に投げ出した時、すべての罪、責任から逃れたやうな安堵《あんど》の息のなかに、そのまま昏睡しようとした。
お葉は新しい家の二階に上つて見たのである。夕ぐれの藍色の空に高い高い浴場の煙突が聳《そび》え、白いほのかな煙りがゆるやかに流れてゐた。そして何物もない靜かな空は象眼細工のやうに細い月がかかつてゐたのである。お葉の心はいづことなく天地のなかから響くどよめきのなかに淋しく沈んだ。新しい浴場はいま青い瓦斯《ガス》のいろに美しく浮き出て、そこに花のやうな香が立ち舞ふのである。お葉の瞳はいつか物珍らしげに向ひの家を見下ろして、その格子窓から洩れる三味の音を聞いてゐるのであつた。それはなんの歌とも解らない。しかしその調子のままに動いてゐた心が、やがてばたりと切りはなされて、お葉は茫然《ぼんやり》した。三味はやんで、やがて格子ががらりと開いたと思つたら、繻子《しゆす》の細帶を結んで唐人髷《たうじんまげ》に結つた娘が、そのまま駈け出して湯屋のなかに吸はれるやうに入つたのである。
「自分の世界とはすつかり違つてゐる。」
お葉はなんとなくそんな事が考へられた。
自分の身が實際であるならば、いま自分が見てゐる世界は繪のやうな氣がする。繪の世界が現實ならば、自分はいま夢を見てるんだ。彼女は強ひられたやうに、そんな考が心のなかに起るのを感じながら、幾多の美しい肉體が亂れ合つてゐる浴場の霞のやうに立ち登る湯氣のなかを想像したのである。
その後、お葉は母親と二人靜かな朝の冷たい湖のやうな浴場の姿見の前に立つて、丈長い帶と赤いしごきを解いたのである。
三越の廣告の女は壁の上から黒い瞳を投げて居た。着かへたしぼりの浴衣《ゆかた》のいろが美しく鏡のなかに浮き出た時、お葉は物かなしい瞳で、ぢつと鏡のなかを見守つたのである。
一脚の足は運ぶことを知らぬ。兩手の指が強く硝子窓の棧にふれながら、漸く湯つぼのへりにたどりついた時、母親のくんで流すお湯は、彼女の足の裏をおびえるやうに、そして快く流れたのであつた。ぬれようとする浴衣の裾を、母親が容赦なくまくり上げた時、反抗する手段のないお葉は、強いそして物かなしい樣な瞳に母親を見返つたが、何《ど》うしても浴衣はそこでぬがねばならないのだつた。すべてを奪はれたお葉は慘忍な健康者の態度を見入りつつ、海底に棲《
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