子は何も言はずに横になつた。彼女は咳が出た、そして毎日發熱した。食慾もほとんどなかつた。彼女の病氣はなかなかなほらなかつた。
けれども巍はこの海岸に來ると間もなく、繪をかく爲めに旅に出なければならなかつた。彼は畫家であつた。そしてその繪によつて生活しなければならなかつたので、彼は病める妻と子とを殘して、どうしても旅に出かけねばならなかつた。
巍《たかし》は自分自身の悲しみを押しかくすやうにして、そつと旅の仕度をした。そして、
『悲しんではいけない、ね、』と、多緒子が白い敷布《しきふ》の上にうつ伏すやうになつて、うるんでる大きな瞳を、叱るやうにして見つめると、あわてゝ荷物をとりながら、
『ぢや行つて來るぞ、ぢや行くぞ、いゝか。』
と言ひながら、外《そと》に出ようとして蚊帳のなかから多緒子がなんにも返事をしないと、
『どうした。』と言つてあわてゝのぞき込んだ。
『ぢや、いゝか。行くぞ。』
巍は後《あと》を振りかへらないやうにと、朝早く大いそぎで家を出た。
多緒子は、寢たまゝで夜と晝とをうつゝのやうに暮した。二人の女中が雇はれて一人は幸子《さち》の守の爲めの幾分白痴のやうな中年の女と、一人は家の中一切をやる働き盛りの若い女であつた。
幸子の咳はあまりひどい咳ではなかつたけれども、咳の出る度に幸子ははげしく泣いた。そして非常に機嫌が惡く、寢てゐる多緒子のそばから少しもはなれまいとした。そして幸子は夜中母親の力ない胸にすがつて乳をのんだ、多緒子は非常によく乳が出た。そして病氣になつてもやはり幸子が呑むせゐか、前と少しもかはりはなく、あふれる程出た。けれども夜中我子に乳を呑ませてゐる多緒子は、丁度すべての血管から血を吸ひとられてゐるやうに苦しかつた。彼女はあけ方《がた》を待つた。そして幸子が女中に負はれて外に出て行くと、彼女はぐつたりと、あを向きになつて眼を閉ぢた。
幸子はいつも悲しさうに泣きながら、きたない女の脊中に負はれて海の方《はう》につれられて行く、女はいつも子供が高い細い聲で泣きとほすのに、調子の低い聲でいつもおなじやうに、
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たんぽさん、たんぽさん、お前の國はどこじやいな。房州の房州の外房州。――
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と歌ひながら、ぶらり/\と歩いて行くのであつた。
多緒子は、ぢつと動かないやうに眼を閉ぢながら涙をためた。子供の細い泣き聲がいつまでも/\きこえてゐた。
幸子《さちこ》は、しばらくたつて泣きやんで歸つて來るが、靜かに起き上つてゐる多緒子の顏を見ると、急に堪へがたいやうに泣き立てた。そして多緒子の細い腕に抱かれると、すゝり上げて嬉しさうに泣きやんだ。けれども彼女はすぐにまた横にならなければならなかつた、幸子は晝も夕べも、女の脊中に負はれて、
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たんぽさん、たんぽさん、お前のお國はどこじやいな。房州の房州の外房州。――
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といふ唄の聲につれて、泣きながら海の方や松林のなかに、つれられて行くのであつた。
多緒子は娘であつた頃病といふものを少しも怖れてゐなかつた。彼女は靜かな部屋のなかの藥とそして花の香の中で、力ない腕を見つめながら白い床の上にねてゐることは、本當に美しいことであると思つてゐた。そして殊に若く美しい花が人に手折《たを》られたやうに死んで行くことは、限りない幸福なことだと考へてゐたのであつた。そして生れつき弱い彼女は、これまで度々病氣をした。けれどもその病氣に對しての恐怖、その恐怖に對する悲しみなどを、眞に感じたことがなかつたのだ。
しかし多緒子はいま床の上に身を横たへながら、絶えず死の恐怖におそはれた。そして死の恐怖におそはれるが故に、彼女の悲しみは絶えなかつた。幸子の泣き聲にも、女の歌の聲にも、ゆるい波の音にも、たへがたい悲哀をおぼえた。彼女は自分の死後の悲慘な子供の未來が胸に浮んでならなかつた。
自分がゐなくなつたならば、誰が幸子《さちこ》に乳をのませてくれるだらう。誰が子供に着物を縫つてやるだらう。彼女は力なく部屋のなかを見まはしてゐる時、いつもさう思ふのであつた。彼女はいま力なく何事もなし得ないで床のなかに横たはつてゐるけれども、見まはした部屋のなかに目につくすべての必要なものは、彼女の考、彼女の手、彼女の心づかひで、すべて出來たものであつた。彼女が死んでしまつたならば、それらのすべての必要なもの清らかなものは古びてそこなはれて、いつかなくなつてしまふだらう。そしてその中に成長する幸子、生活する夫の何物かに不足がちな淋しい顏、淋しい心を考へることが出來るのであつた。
多緒子はしみ/″\と自分の心、自分の力、自分の愛が家のなかのすべてのものに、夫と子供の心のすべてに肉體のすべてに行き渡つて流れてゐることを感じた。そして自分の生きてるといふことが愛する夫や子供の幸福の幾分にでもなつてゐるのだと云ふことを考へると、一日でも一時間でもながく彼等の爲めに生きなければならないと考へた、彼女は死を怖れた。病を悲しんだ。もしもこの病が旅に出てゐる夫を再び見ることをさせず、慕う子供を殘して自分を死に導いたならば――と思ふのであつた。
夫の巍《たかし》が一週間ほどして歸つて來た時、多緒子は甦へつたやうに喜んだ。彼も多緒子の別に變化のないらしい顏を見ると、すべてのなやみから逃れたやうな、はつとした顏をした。そして、丁度すや/\と寢てゐた幸子《さちこ》の顏をむさぼるやうに眺めて、
『どうした、別に幸子もなんでもなかつたか。』
と巍は嬉しさうになつかしさうに笑ひながら、眼に涙を浮べた。彼は急に立つてそして着物をぬぎながら、
『どうした。どうしてゐた。變つたこともなかつたか、苦しいやうなこともなかつたか。』
と、部屋のなかを歩きながら繰りかへした。
多緒子は、そつと床の上に起き上つた。幸子は、やがて目覺めた。
『どうした、待つてたか。』
巍は、あわてゝ幸子の顏に顏を押しあてゝ抱き上げた、幸子は彼の顏を見ると泣き出した。彼は部屋のなかを歩きまはつた。すると幸子は急に泣きやんで彼の顏を見ると笑つた。
多緒子は嬉しさうにその樣子をぢつと見てゐた。巍《たかし》は嬉しさうに幸子の顏をぢつと見つめた。幸子の笑つてる顏には、いま泣いた涙がまだ頬をつたつてゐた。そしてやがて、彼の瞳にも、彼女の瞳にも、涙が新らしく浮んで來た。
その夜、多緒子は夫に自分の死に對する恐怖を物語つた。そして彼女はつけ加へた。
『そして私はこんな事まで考へますの。私は肺が惡いんでせう、肺は感染《うつ》つてからでも十年位もひそんでゐるつて云ふんですもの、もしも私が死んでしまつてから、あなたが病氣になつて死ぬやうなことがあつたら、幸子はなんといふ不幸な子になるでせう。孤兒になるんですもの。そして幸子が一人ぼつちになつてから、また肺病になつたとしたら、幸子は看病してくれる人もなく、本當に道ばたにたふれて死ぬかもしれませんわ。ね、私はそんなことになつたらどうしようと思ひますわ。本當に病氣はいやだ。どうかしてはやく癒りたい。』
と彼女は顏に手をあてた。
『本當に、どうかして出來る丈のことをして癒さう、それでも癒らないで、お前が死なゝければならない時には、幸子も俺も死んだ方が幸福なのだ。お前が死ぬ時には、きつとみんな一緒に死なう。幸子が孤兒になる。そんなことは決してない。』巍《たかし》は言つた。
死なうとするのも、生きようとするのも、すべて愛の爲めであつた。そして生きることも死ぬことも絶對なのだ、若い兩親は、一人兒《ひとりご》の爲めに生きやうし、また死なうとした。
多緒子は衰弱した。そして幸子が彼女の乳をのむことは、彼女の血を眞實吸ひとるかのやうに思はれた。彼女と巍《たかし》とは幸子に對する目前の愛に捉はれないやうにと、我子の生先を氣づかつて、醫者のすゝめのまゝに、すぐほど近くの百姓家へ、一時母親の乳をはなすためにあづけた。
部屋のなかに散らばつてゐた幸子の必要なすべての品々は持ち去られた。そして横になつてる多緒子は眼をうすくして室内を見廻したが、我子のものは何物もなかつた。彼女は靜かに眼を閉ぢて眠りに入らうとしたが、心のなかには何物も待つものゝない頼りなさ、目覺めても黄昏《たそがれ》になつても、そして夜になつても、泣いて歸つて來る我兒がゐないことを思ふと、彼女は安らかに瞳を閉ぢることが出來なかつた。多緒子の痩せた胸にとび出た乳房は、幸子のことを思ふと、つまるやうになつてかたく張つて來た。
幸子をつれて置いて來た巍《たかし》は、すぐ歸つて來たが、うろ/\と部屋のなかを歩いてなか/\坐らうとはしなかつた。多緒子はかたく張つた乳をおさへては時々何か言はうとしては、巍《たかし》の方を見た。彼はふと窓際に腰をおろして考へるやうにしてゐたが、
『幸子が泣いてつれられて來たんぢやないか、たしかに幸子の泣き聲だ、俺は泣いてこまるやうだつたら、すぐつれて來てくれと言つて來たんだから。』
と、あわてたやうに外《そと》に飛び出した。
その夜|二人《ふたり》は、各々《おの/\》の心のなかに響く子供の聲に、幾度となく目覺めて耳をすました。そしてあけやすい夏の空が白んだと思ふと、巍は飛び起きて部屋の戸をあけはなした。白い曉の空氣は、靜かに部屋のなかに流れ込んだ。けれども何物もないすべてのものを奪ひ取られたやうな彼は、ぶらつと部屋のなかに立つてゐた。そして彼女は流れて來た白い朝の光りをそつと見ると、堪へがたく悲しみに打たれたやうに、再び眼を閉ぢた。
巍は氣がついたやうに、幸子の樣子を見てくると言つて家を出た。家のなかはすつかり靜まりかへつてしまつた。
多緒子は、その靜けさのなかに一人とり殘されたやうに、ぢつと眼を閉ぢてゐることが出來なかつた。彼女の心は我子を思ふ愛情の堪へがたさに波うつて、そしてはげしくふるへてゐた。彼女はたゞ一人靜かに起き上つた、そして力なくゐざりながら窓際によつて、霧につゝまれた裏の松林の小路《こうぢ》を見つめた、多緒子は、かうして自分が見つめてゐるうちに、ひよつとどこかの松の陰から幸子が夫の手に抱かれて出て來やしないか。この小路を歩いて來やしないか。と思はれてならなかつたのだ、もしやさうして私の所に來るのだつたならば、出來るだけこの窓から眼のとゞくかぎりの遠くに歩いて來る夫《をつと》、我子をも見のがすまいと思ひつめてゐた。
『母さんや、母さんや、』
ふつと霧につゝまれた松林のなかから、巍《たかし》の喜びにみちたやうな聲を聞いた時、多緒子ははつとして大きな眼を見はりながら、
『幸子《さちこ》や。』と漸く咳の出さうな咽喉をおさへて、半ばかすれたやうな聲で出來るだけ大きく聞えるやうにと叫んだ。するともういつの間にか幸子が、不似合な冬の頃の赤い着物を無雜作にきせられて、巍に抱かれながら、松林の小路《こうぢ》を此方《こちら》へ向つて歩いて來てゐるのであつた。
多緒子は、入《はひ》つて來た夫の手から幸子をとつて抱きしめた。幸子は大聲で泣きながら、彼女の乳をさぐつた。多緒子は涙ぐみながら、夢中になつて乳を與へた。
『あゝ可哀想に、可哀想になあ。』
巍《たかし》は幸子をなだめるやうに言つた。すると彼女はすぐに、
『どんな風にして居りまして、おとなしく遊んで居りまして。』と、氣づかはしさうに彼の顏を見た。
『駄目だ。俺はもう幸子《さちこ》をやらないよ。可哀想だ、親があるのに子供を親の許から離して、他《た》にあづけるなんていふ法はない。俺が行つたら幸子は、眞黒《まつくろ》な蚊帳のなかのきたないおかみさんの大きな蒲團のなかにころがつて、一生懸命泣いてゐるんだ。そしておかみさんはなにか仕事をしてゐるんだらう。「幸子《さちこ》。」つて俺が入る時に呼んだらば、すぐ驚いたやうに泣きやんで、四邊《あたり》をぐるぐる見てゐるのさ。そしてまた火のつくやうに泣き出したんだ。俺がいそいで行つて、蚊帳のなかから幸子を出して抱き上げようとして見ると、幸子の身體《からだ》が一
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