っていた。そして彼女は静かに讃美歌を口ずさみながら、緑の木蔭の方に吸われて行った。
『命は葉末の露にもにたり、父さり姉ゆき友またねむる。――』
 そして、彼女は遠くに白く光って見える池の方を見つめていたが、少女の心は疲れたように沈み切ってしまっていた。彼女は大きな楡の木蔭に日をよけていつまでも/\立っていた。彼女の静かな心のなかに重い緑のかげが、次第々々にひろがって来た。
『お縫ちゃん。』
 彼女は茫然と物倦く二つの眼を開きながら遠くの方を見ようとした時、つい横の木のかげから、彼女の兄がボールを持って出て来た。
『なにをしてるの、家《うち》に帰らないのかい。』
 彼女は静かに笑って兄を見た。兄は急に五間位先の方に飛んで行ったと思うと、ボールを高く上げて、『いゝかーい。』と大きな声で叫んだ。そしてその言葉が終ると、すぐ白いボールが少女の前に飛んで来た。彼女は仕方なく目の前に来たボールを取ろうとして思わず両手に力を入れた時、彼女の心のなかにひそんでいた気軽なよろこびの心がふいと飛出してしまった。彼女は一人で大きく笑ってしまった。そしてボールを力一っぱい宙に向って投げかえした。
 少女が家に帰った時、母親の姿が見えなくって、客間からよほど前の記憶にある伯母の声がきこえていた。彼女はお茶を持って行かねばならなかったけれども、少女は、それがたまらなく嫌で仕方がなかったので、じっとして本をよみ初めた。
『お縫ちゃん、お縫ちゃん』
 母親は、客間から出ようとして彼女をよんだ。しかし彼女がふと母親の方を見た時、母親はきつい目をして彼女を見た。彼女は重たいかなしい心になって、母親を恨みながらお茶を持って出た。
 少女は客間の襖に手をかけた時に、仕方なく自分の心がとけてゆくのを感じた。そしていつかやわらかな微笑が、少女の心と顔とをつゝんでしまった。彼女は顔を赤くそめながら伯母の前にお茶をすゝめて、すぐ引かえした。伯母は、歯を黒くそめた色の白い人であった。
『まあ、お縫ちゃんがすっかりいゝ娘さんになってしまって、見ちがえるように綺麗にやさしく、おとなになりましたねえ。』
 伯母のその言葉が、少女の引かえして来る耳のうしろに聞えた。少女はふと立止って自分の身のまわりをそっと見た。そしてなにかしら自分の知らないことがあるような気がしてならなかった。



底本:「北海道文学全集 第四巻」立風書房
   1980(昭和55)年4月10日初版第1刷発行
初出:「女の世界」
   1916(大正5)年4月号
入力:小林 徹
校正:大西敦子
2000年9月16日公開
2005年12月29日修正
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