』兄は裏の方に行こうとして、また云った。少女は、常のように気軽な元気な言葉が出なかった。しかし兄に対するしたしみの嬉しさの微笑が、やさしく頬に浮んだ。『あんまり暑かったから――』
少女は口少なく云った。兄は妹がかぎりなく優しく見えた。そして美しきものに対するある隔意を感じながら裏口にまわった。
一週間ののち、少女はまた飛び立つような身軽《みが》るさとうれしさとに輝く盛夏の日光を、限りなく身一っぱいに浴することが出来た。彼女の肉体も感情もすべてが新らしく力強くなったように思われた。少女は一人すべて路傍のものにまでのはげしい憧憬《しょうけい》や熱愛のために、湧きかえるような心を抱いて道を歩いた。彼女はやがて大通りの大きな本屋に元気よく飛び込んだ。本屋の店先には、若い男女学生が記《しる》された本の表題に、各々胸をおどらしているのであった。
少女はじっといろ/\な表題を見ていた。そして彼女の心のなかの憧憬《しょうけい》が、あふれるようになった時、悲哀が彼女を涙ぐませる程にいつか一ぱいになってしまってた。何を思うのでもない。そしてまた何をかなしむのでもない。けれども彼女はすべてがはかなく、すべてが悲しみにみちてるように思われたのであった。彼女は、一葉全集を静かに風呂敷につゝみながら店を出た。
少女は道すがら、いろ/\悲しい事を思出していた。自分の姉が肺病で病院に入っていること、そして肺病だからといって自分がもはや一月以上も姉に逢われないこと、その姉の大きな眼、あの細い手にはめてる真珠の指環、長い長い髪、少女は美しい一番上の姉を思出してる時、もはや姉は死んだ人のように思われた。
『姉さんは死ぬんだ。』そう彼女は口のなかではっきりと云って見た。けれども心のなかではもはや姉さんがこのまゝ彼女に逢わずに病院で死んでしまったことになっていた。彼女は涙があふれそうになった。彼女は夢のように歩いた。
少女はやがておどろいたように立止った。そして行きすぎた女の人の後姿を振りかえって見たが、それは彼女の学校の歴史の先生ではなかった。行きすぎた女の人の髪の毛は、あまりにすくなかった。けれども彼女は、すぐなつかしい歴史の先生のことを思出した。そして、彼女がその先生といまだ近づきになることが出来ないことがたまらなく悲しく思われて来たのであった。
少女はいつか博物館の森の方に歩いて来てしま
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