冬の王
ハンス・ランド Hans Land
森鴎外訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)北国《ほっこく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五月一|日《じつ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った
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 このデネマルクという国は実に美しい。言語には晴々しい北国《ほっこく》の音響があって、異様に聞える。人種も異様である。驚く程純血で、髪の毛は苧《お》のような色か、または黄金色《こがねいろ》に光り、肌は雪のように白く、体は鞭《むち》のようにすらりとしている。それに海近く棲《す》んでいる人種の常で、秘密らしく大きく開いた、妙に赫《かがや》く目をしている。
 己《おれ》はこの国の海岸を愛する。夢を見ているように美しい、ハムレット太子《たいし》の故郷、ヘルジンギヨオルから、スウェエデンの海岸まで、さっぱりした、住心地《すみごこち》の好《よ》さそうな田舎家《いなかや》が、帯のように続いていて、それが田畑の緑に埋《うず》もれて、夢を見るように、海に覗《のぞ》いている。雨を催している日の空気は、舟からこの海岸を手の届くように近く見せるのである。
 我々は北国《ほっこく》の関門に立っているのである。なぜというに、ここを越せばスカンジナヴィアの南の果《はて》である。そこから偉大な半島がノルウェエゲンの瀲《みぎわ》や岩のある所まで延びている。
 あそこにイブセンの墓がある。あそこにアイスフォオゲルの家《いえ》がある。どこかあの辺《へん》で、北極探険者アンドレエの骨が曝《さら》されている。あそこで地極《ちきょく》の夜《よ》が人を威《おど》している。あそこで大きな白熊《しろくま》がうろつき、ピングィン鳥《ちょう》が尻《しり》を据えて坐《すわ》り、光って漂い歩く氷の宮殿のあたりに、昔話にありそうな海象《かいぞう》が群がっている。あそこにまた昔話の磁石の山が、舟の釘《くぎ》を吸い寄せるように、探険家の心を始終引き付けている地極の秘密が眠っている。我々は北極の閾《しきい》の上に立って、地極というものの衝《つ》く息を顔に受けている。
 この土地では夜《よる》も戸を締めない。乞食《こじき》もいなければ、盗賊もいないからである。斜面をなしている海辺《かいへん》の地の上に、神の平和のようなものが広がっている。何もかも故郷《こきょう》のドイツなどとは違う。更けても暗くはならない、此頃《このごろ》の六月の夜《よ》の薄明りの、褪《さ》めたような色の光線にも、また翌日の朝焼けまで微《かす》かに光り止《や》まない、空想的な、不思議に優しい調子の、薄色の夕日の景色にも、また暴風《あらし》の来そうな、薄黒い空の下で、銀鼠色《ぎんねずみいろ》に光っている海にも、また海岸に棲んでいる人民の異様な目にも、どの中にも一種の秘密がある。遠い北国《ほっこく》の謎《なぞ》がある。静かな夏の日に、北風が持って来る、あちらの地極世界の沈黙と憂鬱《ゆううつ》とがある。
 己は静かな所で為事《しごと》をしようと思って、この海岸のある部落の、小さい下宿に住み込んだ。青々とした蔓草《つるぐさ》の巻き付いている、その家に越して来た当座の、ある日の午前《ごぜん》であった。己の部屋の窓を叩《たた》いたものがある。
「誰《たれ》か」と云《い》って、その這入《はい》った男を見て、己は目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。
 背の高い、立派な男である。この土地で奴僕《ぬぼく》の締める浅葱《あさぎ》の前掛を締めている。男は響の好《よ》い、節奏のはっきりしたデネマルク語で、もし靴が一足間違ってはいないかと問うた。
 果して己は間違った靴を一足受け取っていた。男は自分の過《あやまち》を謝した。
 その時己はこの男の名を問うたが、なぜそんな事をしたのだか分からない。多分体格の立派なのと、項《うなじ》を反《そら》せて、傲然《ごうぜん》としているのとのためであっただろう。
「エルリングです」と答えて、軽く会釈して、男は出て行った。
 エルリングというのは古い、立派な、北国《ほっこく》の王の名である。それを靴を磨く男が名告《なの》っている。ドイツにもフリイドリヒという奴僕はいる。しかしまさかアルミニウスという名は付けない。この土地はおさんにインゲボルクがいたり、小間使にエッダがいたりする。それがそういう立派な名を汚《けが》すわけでもない。
 己はいつまでもエルリングの事を忘れる事が出来なかった。あの男のどこが、こんなに己の注意を惹《ひ》いたのだか、己の部屋に這入っていた時間が余り短かったので、なん
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