する、冥想《めいそう》する、思想の上で何物をか求めて、一人でいると云うことを覚えたものと見える。その苦痛が、そう云う運命にあの男を陥《おとし》いれたのであろう。そこでこうして、この別荘の冬の王になっている。しかし毎年春が来て、あの男の頭上の冠《かんむり》を奪うと、あの男は浅葱の前掛をして、人の靴を磨くのである。夏の生活は短い。明るい色の衣裳《いしょう》や、麦藁帽子《むぎわらぼうし》や、笑声や、噂話《うわさばなし》は※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2−1−57]忽《たちまち》の間《あいだ》に閃《ひらめ》き去って、夢の如《ごと》くに消え失《う》せる。秋の風が立つと、燕《つばめ》や、蝶《ちょう》や、散った花や、落ちた葉と一しょに、そんな生活は吹きまくられてしまう。そして別荘の窓を、外から冬の夜《よ》の闇《やみ》が覗く。人に見棄《みす》てられた家と、葉の落ち尽した木立《こだち》のある、広い庭とへ、沈黙が抜足をして尋ねて来る。その時エルリングはまた昂然として頭を挙げて、あの小家《こいえ》の中の卓《たく》に靠《よ》っているのであろう。その肩の上には鴉《からす》が止まっている。この北国《ほっこく》神話の中の神のような人物は、宇宙の問題に思を潜めている。それでも稀《まれ》には、あの荊の輪飾の下の扁額《へんがく》に目を注ぐことがあるだろう。そしてあの世棄人《よすてびと》も、遠い、微かな夢のように、人世《じんせい》とか、喜怒哀楽とか、得喪利害とか云うものを思い浮べるだろう。しかしそれはあの男のためには、疾《と》くに一切|折伏《しゃくぶく》し去った物に過ぎぬ。
 暴風が起って、海が荒れて、波濤《はとう》があの小家《こいえ》を撃ち、庭の木々が軋《きし》めく時、沖を過ぎる舟の中の、心細い舟人は、エルリングが家の窓から洩《も》れる、小さい燈《ともしび》の光を慕わしく思って見て通ることであろう。
[#地から1字上げ](明治四十五年一月)



底本:「於母影 冬の王 森鴎外全集12」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「森鴎外全集」岩波書店
初出:「帝国文学」
   1912(明治45)年1月1日
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2005年10月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:/
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