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デジデリオ 誰かよく生きる、彼《かれ》の後《のち》に。芸術家にして真に命《いのち》を有するもの、その精神は高らかに能《よ》く万象を馴致し、単純にして且《か》つ賢きこと童子の如きもの、果して有るを得るか。
アントオニオ 誰か能く彼の天稟《てんぴん》に参通し得る者ぞ。
バチスタ 誰かよく彼の知識の前に悚然《しょうぜん》たらざるを得るか。
パリス 誰か能くわれわれの芸術家でありや否やを断じ得る者ぞ。
チチアネルロ 生のない森をば彼は生かした。褐色の池のぴたぴたと音《ね》を立てる処、蔦の葉の山毛欅《ぶな》の幹にまとわる処、その空寂の裡に彼は能く神々を拉《らつ》し来《きた》った。サチロスはその笛を以てシリンクスを喚び起し、あらゆる物をして欲望に膨れしめた。そして牧人は牧女に伍して……。
バチスタ 引いて行く、実質もない雲には彼は心を賦与した。被衣《かつぎ》のような、淡い、白いひろがりをば、淡く甘美なる※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]《しょうこう》の心と解いた。金の覆輪を置いた黒い物々しい雲の洶湧《きょうよう》、笑いながら膨れ上る円い灰色の雲、宵々に棚引く銀紅の雲、それ等は皆魂を持っている。彼に由って心を獲来《えきた》ったのだ。裸《はだか》の薄青い岩から、緑の波のたぎり飛ぶ白い飛沫《しぶき》から、黒い広野の微動だにしない夢想から、雷に撃《う》たれた※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かしわ》の樹の悲哀から、凡てそれ等のものから我々の理解し得る人間的のものを作り来り、又われわれに夜《よる》の物の化《け》を見ることを教えてくれた。
パリス 彼はわれわれを半夜より起し、われわれの心を明るくし且《か》つ豊富にしてくれた。日々《にちにち》の流れ、差す潮引く潮を戯曲として味い、あらゆる形の美を理解し、又われわれの内心を凝視する術を教えてくれた。女、花、波、絹、黄金、また色|斑《まだ》らなる石の光、高き橋、春の渓谷、その水晶なす泉のほとりには金髪のニンフの群れる――また人の唯夢にのみ見るを得るもの、またわれわれを取囲む醒《さ》めた現実、それ等は凡て彼の心中に浸透して後、初めてその美を得来《えきた》ったのだ。
アントオニオ 丈高く美しい人には歌謡の舞蹈《ぶとう》、色斑らなる仮面には炬火《たいまつ》の光、臥し眠る心にはさゆらぎの律動を鳴らす音楽、わかき女には鏡、花には明るい温い太陽の光、即ち一つの眼《まなこ》――美が初めて自己を認める調和の源……それ等のものをば、自然は彼の内心の光のうちに発見したのだ。「われ等を喚び起したまえ、われ等よりバッコスの祭を作りたまえ。」凡そ生きとし生けるものは彼を慕い、言葉は出さねども、彼の眼差《まなざし》をうち見つめつつ、かくは叫んだのだ。
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アントオニオがかく話しているうちに、三人の少女たちは静かに戸より離れ、立ち止ってそっとその話を聴く。唯チチアネルロのみはやや懶《ものう》げに、且つ気乗りせぬげに右手の方に群を離れて立ち、少女たちを眺めている様子。ラヴィニアは金髪を黄金の綱にて留め、ヴェネチア貴族として豪華のいでたちをしている。カッサンドラ及びリザは年の頃十九歳、十七歳ばかりにして、しなやかに身に附き、ひらしゃらとなびく白き地質の衣を着ている。腕はあらわにて、その上膊には蛇形の黄金の環をはめ、サンダアルを穿《うが》ち、黄金の細工の帯を締めている。カッサンドラは灰がかりたる金髪。リザは黄いろき薔薇の蕾《つぼみ》を黒髪にかざしている。どことなく壮《わか》き男のようなる処あること、恰《あたか》もジヤニイノに処女《むすめ》処女したる処あるに似ている。彼等の後方には一侍僮戸口から出て来る。手に打ち出し模様の銀の酒杯を携えている。
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アントオニオ 夢みるように、夕風のうちに立つ遠い樹の茂りのおもしろさ……。
パリス 青い入江を行き過ぐる倏忽《しゅっこつ》の白帆のかげに美を覚り……。
チチアネルロ (軽く首を下げて少女たちに会揖《かいゆう》しながら。――少女たち皆その方を向く。)あなたがたの髪のにおいを、その沢《つや》を、またあなたがたの形の象牙の白さを、柔かに巻く黄金の帯を、音楽として、幸福として感ずるのは――畢竟《ひっきょう》、先生が僕たちに、物を見ることを教えてくだすったからなんですよ。(苦渋の調子にて。)だがあの下の町の人々にはそんな事は一切分らないでしょう。
デジデリオ (少女たちに。)先生はおひとりなのですか。誰も往ってはいけないのですか。
ラヴィニア ここにいろとおっしゃりました。今は誰も来てはいけないのですって。
チチア
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