のうちに身を埋め、ひそひそとささやいた。そのさざめきをば、ともすると、さらりと夜風が伝えて来た。物の化《け》か幽霊のような、あやしくひそやかなその響を。異様に、恐ろしく、ひいやりと、薄気味わるく。物の音を耳には聴いたが、何《なん》にも考えることは出来なくなったんだ。それでもその時|忽然《こつぜん》として、万事が会得せられたのだね。あの市街の石のような沈黙のうちに、僕は見たんだ、蒼涼《そうりょう》たる夜《よる》の流に包まれて紅き血汐の暴いバッカントの踊るのを。その屋根屋根を廻《めぐ》って燐光の燃え、怪しい物かげのゆらゆらと反映するのを。僕はその時はっと思いついた。ああ市《まち》は眠っている。だが狂酔と苦患《くげん》とは目を覚ましている。憎悪、精霊《せいれい》、熱血、生命、みんな目を覚ましている。生命、命《いのち》あるもの、最も力あるもの――人はそれを持っていながら往々忘れていることがあるね。
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一瞬時瞑目する。
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いろんなことで僕はすっかり疲れてしまったんだ。その一夜《ひとよ》に見たことは実際多過ぎるくらいだったんだ。
デジデリオ (欄干に倚《よ》りかかっているジヤニイノに。)だがこの市が、今下でどんな様子だか見てごらんよ。夕|靄《もや》と金色《こんじき》の残照に包まれ、薔薇《ばら》色した黄、明るい鼠《ねずみ》、その裾《すそ》は黒い陰の青、うるおいのある清らかさ、ほれぼれとする美しさだ。だがその暗示を満した靄の裡には、実はいやな事、つまらない事が一ぱいなんだ。そこの動物たちには唯狂暴があるばかりだ。遠見《とおみ》にはうまく隠してあるが、そこへ往って見ると、美などと云うものをば少しも知らない奴どもがうようよ、ごたごたと、味もそっけもなく充満しているんだ。彼等はその世界をわれわれの使うと同じ言葉で形容してはいるが、それは唯言葉の響だけで、われわれの歓喜、われわれの苦悩とはまるで似もつかぬものなんだ。われわれは深い眠に陥っているが、彼等の眠というものは全くの別物なんだ。あすこで眠っているものは猩紅《しょうこう》の血、黄金の蛇だ。巨人《チイタン》の槌《つち》を振う山が眠っているばかりだ。そして牡蠣《かき》の※[#「りっしんべん+(「夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2−12−81]然《ぼうぜん》たるが如くに、彼等はそこに眠るんだ。
アントオニオ (半ば立上って。)だから先生は庭に高い柵を廻らされたんだ。外界は唯さまざまの花の垣の透き間から――そうだ、視るのではなくて――想像すべきなんだ。
パリス (同じく。)それは紆余曲折の道の教だ。
バチスタ (同じく。)それこそ大きな「背景の芸術」と称せらるべきものだ。定かならぬ光の秘密だ。
チチアネルロ (目を閉して。)消えかけた物の音《ね》。死せる詩人の明かならざる言葉、凡ての諦め去った事がらの美しく見えるのはそれだ。
パリス 過ぎし日の魅力ある所以《ゆえん》だ。限り知れぬ美しさの源はそれだ。慣れ切った事は、実際われわれを窒息せしめる。
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みな沈黙す。間。チチアネルロひそかに哭《な》く。
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ジヤニイノ (機嫌を取る。)君、そんなにがっかりしてしまってはいけない。何時《いつ》までも一つ事ばかり考えていてはいけないよ。
チチアネルロ (傷ましく笑いながら。)君は、痛恨というものが、永久に一事を思い煩《わずら》うこと――結局色も香もなく空虚になってしまうまで――と、まるで、別物でもあるかのように考えているようだね。だが僕には思い煩うことを許してくれたまえ。実際僕はもう疾《と》うに、悩みからも、楽しみからも、色々の小袖は剥《は》ぎ捨ててしまったんだ。まだ苦労を知らない人は、それをいろいろの幻想で飾るね。ところが僕はもう、そんなものは感ずることが出来なくなっちゃったんだ。
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間。ジヤニイノはかたえの階段に至り、頭を腕に埋めて居睡《いねむり》する。
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パリス だがジョコンドはどこにいるだろう。
チチアネルロ 疾《と》うに、夜明前に――その時君等はまだ寝《ね》ていたが――そっと門の外へ出て往った。青い額《ひたい》へ愛の接吻、その脣へ悋気《りんき》の言葉……。
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侍僮等、二幀の画図を携え、舞台を横ぎり過ぐ。一の画はウェヌスと花と、一の画は酒神祭。弟子たち皆起き出で、画図の行き過ぎるまで額を垂れ、帽子を手にして立ち尽す。
しばしの間の後に、人々は皆立ちてあり。
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