た目ではない。先刻から私が外を眺めてゐた間中ずつと此方を見てゐたといふ様な感じがした。
 女は上半身すつかり裸体で、鳶足に坐つた膝の上に赤ん坊を抱いてゐる。赤ん坊はひどく小さい。生れて二月にもなるまい。睡りながら乳首をくはへてゐる。吸つてゐる様子は無い。びつくりしたのと、言葉が不自由なのとで、私は、勝手に留守宅に休ませて貰つた断《ことわ》りを言ひそびれ、黙つて女の顔を見てゐた。こんなに眼を外らさない女は無い。殆ど目を据ゑてゐると言つても宜い。熱病めいた異常なもの迄が、其の眼の光の中に漂つてゐるやうである。少々気味が悪くなつて来た。
 私が逃出さなかつたのは、女の目付の中に異常なものはあつても兇暴なものが見えなかつたからである。いや、まだもう一つ、さうやつて無言で向ひ合つてゐる中に次第に微かながらエロティッシュな興味が生じて来たからでもあつた。実際、その若い細君は美人といつて良かつた。パラオ女には珍しく緊つた顔立で、恐らく内地人との混血なのではなからうか。顔の色も、例の黒光りするやつ[#「やつ」に傍点]ではなくて、艶を消したやうな浅黒さである。何処にも黥《いれずみ》の見えないのは、其の女がまだ若くて、日本の公学校教育を受けて来たためであらう。右の手で膝の児を抑へ、左の手は斜め後《うしろ》に竹の床《ゆか》に突いてゐるが、其の左手の肱と腕とが(普通の関節の曲り方とは反対に)外側に向つてく[#「く」に傍点]の字に折れてゐる。斯《こ》ういふ関節の曲り方は此の地方の女にしか見られないものだ。稍※[#二の字点、1−2−22]《やや》反《そ》り気味な其の姿勢で、受け口の脣《くちびる》を半ば開いた儘、睫の長い大きな目で、放心したやうに此方を見詰めてゐる。私は其の目を外らすことをしなかつた。
 弁解じみるやうだが、一つには確かに其の午後の温度と、湿気と、それから、其の中に漂ふ強い印度素馨の匂とが、良くなかつたのである。
 私には先程からの、女の凝視の意味が漸く判つて来た。何故若い島民の女が(それも産後間もないらしい女が)そんな気持になつたか、病み上りの私の身体が女のさういふ視線に値するかどうか、又、熱帯ではこんな事が普通なのかどうか、そんな事は一切判らないながら、とにかく現在のこの女の凝視の意味だけは此の上なくハツキリ判つた。女の浅黒い顔に、ほのかに血の色が上つて来たのを私は見た。かなり朦朧とした頭の何処かで、次第に増して来る危険感を意識してはゐたのだが、勿論それを嗤《わら》ふ気持の方に自信をもつてゐたのである。その中に、しかし、私は妙に縛られて行くやうな自分を感じ始めた。
 全く莫迦《ばか》々々しい話だが、其の時の泥酔したやうな変な気持を後《あと》で考へて見ると、どうやら私は一寸熱帯の魔術にかかつてゐたやうである。其の危険から救つて呉れたものは、病後の身体の衰弱であつた。私は縁に足を垂れて腰掛けてゐたので、女の方を見るためには、身体を捩つて斜め後《うしろ》を向かねばならない。此の姿勢がひどく私を疲れさせた。暫くする中に、横腹と頸の筋がひどく痛くなつて来て、思はず、姿勢を元に戻すと、視線を表《おもて》の景色に向けた。何故か、深い溜息がホーツと腹の底から出た。途端に呪縛《じゆばく》が解けたのである。
 一瞬前の己の状態を考へて、私は覚えず苦笑した。縁から腰を上げて立上ると、其の苦笑を浮かべた顔で、家の中の女にサヨナラと日本語で言つた。女は何も答へない。酷い侮辱を受けでもしたやうに、明らかに怒つた顔付をして、先刻と同じ姿勢のまま私を見据ゑた。私はそれに背中を向けて、入口の夾竹桃の方へ歩き出した。

 アミアカとマンゴーの巨樹の下を敷石伝ひに私は漸く宿に帰つて来た。身体も神経もすつかり疲れ果てて。私の宿といふのは、此の村の村長たる島民の家だ。
 私の食事の世話をして呉れる日本語の巧い島民女マダレイに、先刻の家の女のことを聞いて見た。(勿論、私の経験をみんな話した訳ではない。)マダレイは、黒い顔に真白な歯を見せて笑ひながら、「ああ、あのベツピンサン」と言つた。そして、付加へて言ふことに、「あの人、男の人、好き。内地の男の人なら誰でも好き。」
 先刻の自分の醜態を思出して、私は又苦笑した。

 湿つた空気のそよ[#「そよ」に傍点]とも動かぬ部屋の中で、板の間の呉蓙の上に疲れた身体をぐつたりと横たへ、私は昼寝の眠りに入つた。
 三十分程も経《た》つたらうか。突然、冷たい感触が私を目醒めさせる。風が出たのか? 起上つて窓から外を見ると、近くのパンの木の葉といふ葉が残らず白い裏を見せて翻つてゐる。有難いなと思つて、急に真黒になつた空を見上げてゐる中に、猛烈なスコールがやつて来た。屋根を叩き、敷石を叩き、椰子の葉を叩き、夾竹桃の花を叩き落して、すさまじい音を立てな
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング