夾竹桃の家の女
中島敦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)呼吸《いき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五六十歩|下《お》りて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)稍※[#二の字点、1−2−22]《やや》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ピチヤ/\
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 午後。風がすつかり呼吸を停めた。
 薄く空一面を蔽うた雲の下で、空気は水分に飽和して重く淀んでゐる。暑い。全く、どう逃れようもなく暑い。
 蒸風呂にはひり過ぎた様なけだるさ[#「けだるさ」に傍点]に、一歩一歩重い足を引摺るやうにして、私は歩いて行く。足が重いのは、一週間ばかり寝付いたデング熱がまだ治り切らないせゐでもある。疲れる。呼吸《いき》が詰まるやうだ。
 眩暈を感じて足をとゞめる。道傍のウカル樹の幹に手を突いて身体を支へ、目を閉ぢた。デングの四十度の熱に浮かされた時の・数日前の幻覚が、再び瞼の裏に現れさうな気がする。其の時と同じ様に、目を閉ぢた闇の中を眩い光を放つ灼熱の白金の渦巻がぐるぐると廻り出す。いけない! と思つて直ぐに目を開く。
 ウカル樹の細かい葉一つそよがない。肩甲骨の下の所に汗が湧き、それが一つの玉となつて背中をツーツと伝はつて行くのがはつきり[#「はつきり」に傍点]判る。何といふ静けさだらう! 村中眠つてゐるのだらうか。人も豚も鶏も蜥蜴《とかげ》も、海も樹々も、咳《しわぶ》き一つしない。
 少し疲れが休まると、又歩き出す。パラオ特有の滑らかな敷石路である。今日のやうな日では、島民達のやうに跣足《はだし》で此の石の上を歩いて見ても、大して冷たくはなささうだ。五六十歩|下《お》りて、巨人の頬髯のやうに攀援《はんえん》類の纏《まと》ひついた鬱蒼たる大榕樹の下迄来た時、始めて私は物音を聞いた。ピチヤ/\と水を撥ね返す音である。洗身場だなと思つて傍を見ると、敷石路から少し下へ外《そ》れる小径《こみち》がついてゐる。巨大な芋葉と羊歯《しだ》とを透かしてチラと裸体の影を見たやうに思つた時、鋭い嬌声が響いた。つづいて、水を撥ね返して逃出す音が、忍び笑ひの声と交つて聞え、それが静まると、又元の静寂に返つた。疲れてゐ
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