り朦朧とした頭の何処かで、次第に増して来る危険感を意識してはゐたのだが、勿論それを嗤《わら》ふ気持の方に自信をもつてゐたのである。その中に、しかし、私は妙に縛られて行くやうな自分を感じ始めた。
全く莫迦《ばか》々々しい話だが、其の時の泥酔したやうな変な気持を後《あと》で考へて見ると、どうやら私は一寸熱帯の魔術にかかつてゐたやうである。其の危険から救つて呉れたものは、病後の身体の衰弱であつた。私は縁に足を垂れて腰掛けてゐたので、女の方を見るためには、身体を捩つて斜め後《うしろ》を向かねばならない。此の姿勢がひどく私を疲れさせた。暫くする中に、横腹と頸の筋がひどく痛くなつて来て、思はず、姿勢を元に戻すと、視線を表《おもて》の景色に向けた。何故か、深い溜息がホーツと腹の底から出た。途端に呪縛《じゆばく》が解けたのである。
一瞬前の己の状態を考へて、私は覚えず苦笑した。縁から腰を上げて立上ると、其の苦笑を浮かべた顔で、家の中の女にサヨナラと日本語で言つた。女は何も答へない。酷い侮辱を受けでもしたやうに、明らかに怒つた顔付をして、先刻と同じ姿勢のまま私を見据ゑた。私はそれに背中を向けて、入口の夾竹桃の方へ歩き出した。
アミアカとマンゴーの巨樹の下を敷石伝ひに私は漸く宿に帰つて来た。身体も神経もすつかり疲れ果てて。私の宿といふのは、此の村の村長たる島民の家だ。
私の食事の世話をして呉れる日本語の巧い島民女マダレイに、先刻の家の女のことを聞いて見た。(勿論、私の経験をみんな話した訳ではない。)マダレイは、黒い顔に真白な歯を見せて笑ひながら、「ああ、あのベツピンサン」と言つた。そして、付加へて言ふことに、「あの人、男の人、好き。内地の男の人なら誰でも好き。」
先刻の自分の醜態を思出して、私は又苦笑した。
湿つた空気のそよ[#「そよ」に傍点]とも動かぬ部屋の中で、板の間の呉蓙の上に疲れた身体をぐつたりと横たへ、私は昼寝の眠りに入つた。
三十分程も経《た》つたらうか。突然、冷たい感触が私を目醒めさせる。風が出たのか? 起上つて窓から外を見ると、近くのパンの木の葉といふ葉が残らず白い裏を見せて翻つてゐる。有難いなと思つて、急に真黒になつた空を見上げてゐる中に、猛烈なスコールがやつて来た。屋根を叩き、敷石を叩き、椰子の葉を叩き、夾竹桃の花を叩き落して、すさまじい音を立てな
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