いのである。しかもM氏は欺されたとは毛頭考えずに、得々として人ごとにこれを見せ廻っているらしい。それにこの文章は明らかにM氏自身の執筆である。
 頁をめくって前の方を見ると、何と、紫式部、清少納言のたぐい[#「たぐい」に傍点]がずらり[#「ずらり」に傍点]と、やはりM夫人と同じ組方で、それぞれ一頁の半分ずつを占めて並んでいる。三造は目を上げてM氏を見た。三造の呆れた顔を感嘆の表情ととったものか、M氏は隠し切れない嬉しさを見せて鼻をうごめかしている。(彼が笑うと、黄色い歯が剥《む》き出され、それと共に、その赤い鼻が――誇張でも形容でもなく――文字通り、ヒクヒクとうごめくのである。)三造はすぐに目を俯《ふ》せた。堪えられない気がした。喜劇? そうかも知れぬ。しかし、これはまた、何と、やり切れない人間喜劇ではないか。腔腸《こうちょう》動物的喜劇? 三造は棚の上の小さなカメレオンの模型に目を外らしながら、ぼんやり、そんな言葉を考えた。

       四

 その夜M氏に誘われて、三造がおでん屋の暖簾《のれん》をくぐったのは、考えて見ると、誠に不思議な出来事であった。第一、M氏が酒をたしなむと
前へ 次へ
全53ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング