望を思い浮べた。既に四辺《あたり》は暗く、山手の教会堂の影も見分けが付かない。彼の歩いて行くすぐ傍を、和船が一艘、音も無く後から追抜いて行く。船尾の燈火が水に尾を曳《ひ》き、船は滑るように橋の下を左へ曲って行く。その動きに誘われるように、彼の考えの糸も、思わぬ脇道に外《そ》れ始める。
「畢竟、俺は俺の愚かさに殉ずる外に途は無いじゃないか。凡てが言われ、考えられた後に結局、人は己が性情の指さす所に従うのだ。その論議・思考と無関係に、である。そして爾後《じご》の努力は、凡て、その性情の為《な》した選択へのジャスティフィケイションにのみ注がれるであろう。考えようによれば、古往今来のあらゆる思想とは、各思想家がそれぞれ自己の性情に向って為したジャスティフィケイションに外ならぬではないか。……」
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
(註1) このひねこびた憐れな少年は、その後二つの異った希求に烈しく悩まされた。「あらゆる事柄[#「あらゆる事柄」に傍点](あるいは第一原理)を知り尽くしたい」という慾望と、「出来る限り多くの事物が(あるいはその事物の原因が)自分の理解を絶した彼方にあればいい
前へ 次へ
全53ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング