一行が引揚げて行く所なのであろう。
それも消え、最後の字幕も消えると、パッと電燈が点《つ》いた。
映画館を出ると、三造は、早目の晩食を認《したた》めるために、近処の洋食屋にはいった。
料理を卓に置いて給仕が立去った時、二つ卓を隔てた向うに一人の男の食事をしているのが目に入った。その男の(彼は此方に左の横顔を見せていた。)頸《くび》のつけね[#「つけね」に傍点]の所に奇妙な赤っちゃけた色のものが盛上っている。余りに大きく、また余りに逞《たくま》しく光っているので、最初は錯覚かとよく見定めて見たが、確かに、それは大きな瘤《こぶ》に違いなかった。テラテラ光った拳大《こぶしだい》の肉塊が襟《カラー》と耳との間に盛上っている。この男の横顔や首のあたりの・赤黒く汚れて毛穴の見える皮膚とは、まるで違って、洗い立ての熟したトマトの皮のように張切った銅赤色の光である。この男の意志を蹂躪《じゅうりん》し、彼からは全然独立した・意地の悪い存在のように、その濃紺の背広の襟《カラー》と短く刈込んだ粗い頭髪との間に蟠踞《ばんきょ》した肉塊――宿主《やどぬし》の眠っている時でも、それだけは秘かに目覚めて哂《わら》っているような・醜い執拗な寄生者の姿が、何かしら三造に、希臘《ギリシヤ》悲劇に出て来る意地の悪い神々のことを考えさせた。こういう時、彼はいつも、会体の知れない不快と不安とを以て、人間の自由意志の働き得る範囲の狭さ(あるいは無さ[#「無さ」に傍点])を思わない訳に行かない。俺たちは、俺たちの意志でない或る何か訳の分らぬもののために生れて来る。俺たちはその同じ不可知なもののために死んで行く。げん[#「げん」に傍点]に俺たちは、毎晩、或る何ものかのために、俺たちの意志を超絶した睡眠[#「睡眠」に傍点]という不可思議極まる状態に陥る。……その時ひょいと、全然何の連絡もなしに、彼は羅馬《ローマ》皇帝ヴィテリウスの話を思出した。貪食家の皇帝は、満腹のために食事がそれ以上喰べられなくなるのを嘆いて、満腹すれば独得の方法で自《みずか》ら嘔吐し、胃の腑を空《から》にして再び食卓に向ったというのだ。何故こんな馬鹿げた話を思出したのだろう?
料理店の白い壁には大きな電気時計が掛かっていて、黄色い長い秒針が電燈の光を反射させながら、無気味な生物のように廻転している。容赦なく生命を刻んで行く冷たさで、く
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