「手紙が来ていましたから」と言って卓子の上に封筒を置いた。事務所とこの標本室とではかなり隔たっているから、わざわざ持って来てくれたのは、話相手を求めに来たに違いない。年齢《とし》は五十を越した・痩《や》せてはいないが丈の低い・しかし容貌は怪奇を極めた人物である。鼻が赤く、苺《いちご》のように点々と毛穴が見え、その鼻が顔の他の部分と何の連絡もなく突兀《とっこつ》と顔の真中につき出しており、どんぐりまなこ[#「どんぐりまなこ」に傍点]が深く陥《お》ち込んだ上を、誠に太く黒い眉が余りにも眼とくっ附き過ぎて、匍《は》っている。厚く、黒人式にむくれ返った唇の周囲をチョビ髭《ひげ》が囲んでいて、おまけに、染めた頭髪は(禿《はげ》は何処《どこ》にもないのだが)所によってその生え方に濃淡があり、一株ずつ他処《よそ》から移植したような工合であって、またそれが短いくせに、お釈迦様のそれのようにひどくねじれ縮れているのだ。
 職員室の誰もがこのM氏を馬鹿にしているようだった。この人の名前を口にのせるたびにニヤリと笑わない者はない。なるほど、性行なども愚鈍らしく、言葉でも「そうした、もので、しょうなあ、」などと一語一語ゆっくりと自分の今の発音を自分の耳で確かめてから次の発音をするように続けて行く。もう二十年もこの学校に勤めているらしいが、その勤続年数よりもその間に幾人かの細君に死なれたり、逃げられたりしたという事の方が有名である。それに、もう一つ、職員と生徒との区別なく、若い女と見れば誰でもすぐに手を握る癖のあることもみんなに知られている。別に悪気《わるぎ》があるという訳ではなく(悪気をもつほどの頭の働きはこの人に無いと、一般に信じられている。)ただもう、抑えることも何も出来ずに、ひょいと握ってしまうものらしい。幾度悲鳴を上げられたり、つねられたり、睨《にら》まれたりしても、一向感じないし、感じても次の時には忘れてしまうのかも知れない。よく、それで馘《くび》にならないものだが、あの御面相だから大丈夫なんでしょう、と笑う職員もいる。このM氏が、誰も相手になってくれるものが無いせい[#「せい」に傍点]か、週に二日しか出て来ない三造をつかまえて、しきりに色々と話をしたがるのだ。私はフランス語をやります、というのだが、聞いて見ると、それがラジオの初等講義を一・二回聞いただけらしいのである。しかし本
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