る。かなり騒々しい職員室から、三造はいつも、この冷たい石たちと死んだ動物植物たちの中へ逃れて来て、勝手な読書に耽《ふけ》ることにしていた。
 今彼の読んでいるのは、フランツ・カフカという男の「窖《あな》」という小説である。小説とはいったが、しかし、何という奇妙な小説であろう。その主人公の俺[#「俺」に丸傍点]というのが、※[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1−94−84]鼠《もぐら》か鼬《いたち》か、とにかくそういう類のものには違いないが、それが結局最後まで明らかにされてはいない。その俺[#「俺」に丸傍点]が地下に、ありったけの智能を絞って自己の棲処《すみか》――窖を営む。想像され得る限りのあらゆる敵や災害に対して細心周到な注意が払われ安全が計られるのだが、しかもなお常に小心翼々として防備の不完全を惧《おそ》れていなければならない。殊に俺[#「俺」に丸傍点]を取囲む大きな「未知」の恐ろしさと、その前に立つ時の俺[#「俺」に丸傍点]自身の無力さとが、俺[#「俺」に丸傍点]を絶えざる脅迫観念に陥らせる。「俺[#「俺」に丸傍点]が脅されているのは、外からの敵ばかりではない。大地の底にも敵がいるのだ。俺[#「俺」に丸傍点]はその敵を見たことはないが、伝説《いいつたえ》はそれについて語っており、俺[#「俺」に丸傍点]も確かにその存在を信じる。彼らは土地の内部に深く棲むもの[#「もの」に傍点]である。伝説でさえも彼らの形状を画くことができない。彼らの犠牲に供せられるものたちも、ほとんど彼らを見ることなしに斃《たお》れるのだ。彼らは来る。彼らの爪の音を(その爪の音こそ彼らの本体なのだ)、君は、君の真下の大地の中に聞く。そしてその時には既に君は失われているのだ。自分の家にいるからとて安心している訳に行かない。むしろ、君は彼らの棲家にいるようなものだ。」ほとんど宿命論的な恐怖に俺[#「俺」に丸傍点]は追込まれている。熱病患者を襲う夢魔のようなものが、この窖に棲む小動物の恐怖不安を通してもやもやと漂《ただよ》っている。この作者はいつもこんな奇体な小説ばかり書く。読んで行くうちに、夢の中で正体の分らないもののために脅されているような気持がどうしても附纏《つきまと》ってくるのである。

 その時、入口の扉《ドア》にノックの音がして顔を出したのは、事務のM氏であった。はいって来ると、
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