れていた或る奇妙な不安が、いつの間にかまた彼の中に忍び込んで来ているのを感じた。
 久しい以前のことである。その頃三造はこういうものを――原始的な蛮人の生活の記録を読んだり、その写真を見たりするたびに、自分も彼らの一人として生れてくることは出来なかったものだろうか、と考えたものであった。確かに、とその頃の彼は考えた。確かに自分も彼ら蛮人どもの一人として生れて来ることも出来たはずではないのか? そして輝かしい熱帯の太陽の下に、唯物論も維摩居士《ゆいまこじ》も無上命法も、ないしは人類の歴史も、太陽系の構造も、すべてを知らないで一生を終えることも出来たはずではないのか? この考え方は、運命の不確かさについて、妙に三造を不安にした。「同様に自分は」と、彼は考え続ける。「自分は、今の人間とは違った・更に高い存在――それは他の遊星の上に棲《す》むものであろうと、あるいは我々の眼に見えない存在であろうと、または、時代を異にした・人類の絶滅したあとの地球上に出て来るものであろうと、――に生れて来ることも可能だったのではないか? その正体が解らない故に我々が恐怖の感情を以て偶然[#「偶然」に丸傍点]と呼んでいるものが、ほんのちょっとその動き方を変えさえしたなら、そのような事が自分に起らなかったと誰が言えよう。そして、もしも自分がそのような存在に生れていたとすれば、今の自分には見ることも聞くことも、ないしは考えることも出来ないような・あらゆる事を見、聞き、考えることが出来たであろう。」こう考えるのは彼にとって堪えがたく恐ろしいことであった。と同時に、堪えがたくいらだたしい[#「いらだたしい」に傍点]ものでもあった。この世には自分に見ることも聞くことも考えることも(経験的にではなく能力上)出来ないものが有り得る。自分が違った存在であったら考えることが出来たであろうことを、自分が今の存在であるばかりに考えることも出来ぬ。こう考えて来ると、漠とした不安の中にありながら、なお当時の三造は、一種の屈辱に似たものを覚えるのであった。

 スクリインでは先刻の踊の場面が消えて密林の風景にかわっている。手と尾との長い真黒な猿が幾匹となく枝から枝へと跳渡っている。ひょいと[#「ひょいと」に傍点]立止って此方を見た・その猿の一匹は、眼の縁に白い輪がかかっていて、眼鏡をかけているように見える。嘴《くちばし》
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