つげん》の憂憤《うっぷん》を叙して、そのまさに汨羅《べきら》に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦《かいさのふ》を長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしても己《おのれ》自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。
 稿を起こしてから十四年、腐刑《ふけい》の禍《わざわい》に遭《あ》ってから八年。都では巫蠱《ふこ》の獄が起こり戻太子《れいたいし》の悲劇が行なわれていたころ、父子相伝《ふしそうでん》のこの著述がだいたい最初の構想どおりの通史《つうし》がひととおりでき上がった。これに増補|改刪《かいさん》推敲《すいこう》を加えているうちにまた数年がたった。史記《しき》百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでに武帝《ぶてい》の崩御《ほうぎょ》に近いころであった。
 列伝《れつでん》第七十|太史公《たいしこう》自序の最後の筆を擱《お》いたとき、司馬遷は几《き》に凭《よ》ったまま惘然《ぼうぜん》とした。深い溜息《ためいき》が腹の底から出た。目は庭前の槐樹《えんじゅ》の茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。うつろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹の
前へ 次へ
全89ページ中86ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング