そは誠《まこと》に凄《すさま》じくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人《おとな》げなく見えた蘇武の痩我慢《やせがまん》が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴《きょうど》の単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、自《みずか》ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人|己《おの》が事蹟《じせき》を知ってくれなくともさしつかえないというのである。李陵《りりょう》は、かつて先代|単于《ぜんう》の首を狙《ねら》いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土《きょうど》の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空《むな》しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬ蘇武《そぶ》を前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。
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