49−12]王の死後は、凍《い》てついた大地から野鼠《のねずみ》を掘出して、飢えを凌《しの》がなければならない始末だと言う。彼の生死不明の噂《うわさ》は彼の養っていた畜群が剽盗《ひょうとう》どものために一匹残らずさらわれてしまったことの訛伝《かでん》らしい。陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を棄《す》てて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。
 この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうした惨憺《さんたん》たる日々をたえ忍んでいるのか? 単于《ぜんう》に降服を申出れば重く用いられることは請合《うけあ》いだが、それをする蘇武《そぶ》でないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早く自《みずか》ら生命を絶たないのかという意味であった。李陵《りりょう》自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を下《おろ》して了《しま》った数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のた
前へ 次へ
全89ページ中73ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング