官を前《さき》の騎都尉《きとい》李少卿《りしょうけい》と認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。蘇武《そぶ》のほうでは陵が匈奴《きょうど》に事《つか》えていることも全然聞いていなかったのである。
感動が、陵の内に在《あ》って今まで武との会見を避けさせていたもの[#「もの」に傍点]を一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった。
陵の供廻《ともまわ》りどもの穹廬《きゅうろ》がいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急に賑《にぎ》やかになった。用意してきた酒食がさっそく小舎《こや》に運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日に亙《わた》った。
己《おの》が胡服を纏《まと》うに至った事情を話すことは、さすがに辛《つら》かった。しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったく惨憺《さんたん》たるものであったらしい。何年か以前に匈奴の於※[#「革+干」、49−11]王《おけんおう》が猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食糧等を給してくれたが、その於※[#「革+干」、
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