のだが、任官後の彼にまず課せられたのは暦の改正という事業であった。この仕事に没頭することちょうど満四年。太初《たいしょ》元年にようやくこれを仕上げると、すぐに彼は史記《しき》の編纂《へんさん》に着手した。遷、ときに年四十二。
腹案はとうにでき上がっていた。その腹案による史書の形式は従来の史書のどれにも似ていなかった。彼は道義的批判の規準を示すものとしては春秋《しゅんじゅう》を推したが、事実を伝える史書としてはなんとしてもあきたらなかった。もっと事実が欲しい。教訓よりも事実が。左伝《さでん》や国語《こくご》になると、なるほど事実[#「事実」に傍点]はある。左伝の叙事の巧妙さに至っては感嘆のほかはない。しかし、その事実を作り上げる一人一人の人についての探求がない。事件の中における彼らの姿の描出は鮮《あざ》やかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人の身許《みもと》調べの欠けているのが、司馬遷《しばせん》には不服だった。それに従来の史書はすべて、当代の者に既往をしらしめることが主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようであ
前へ
次へ
全89ページ中34ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング