せる通史《つうし》の編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料の蒐集《しゅうしゅう》のみで終わってしまったのである。その臨終《りんじゅう》の光景は息子・遷《せん》の筆によって詳しく史記《しき》の最後の章に描かれている。それによると司馬談は己のまた起《た》ちがたきを知るや遷を呼びその手を執《と》って、懇《ねんご》ろに修史《しゅうし》の必要を説き、己《おのれ》太史《たいし》となりながらこのことに着手せず、賢君忠臣の事蹟《じせき》を空《むな》しく地下に埋もれしめる不甲斐《ふがい》なさを慨《なげ》いて泣いた。「予《よ》死せば汝《なんじ》必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」といい、これこそ己に対する孝の最大なものだとて、爾《なんじ》それ念《おも》えやと繰返したとき、遷は俯首流涕《ふしゅりゅうてい》してその命に背《そむ》かざるべきを誓ったのである。
 父が死んでから二年ののち、はたして、司馬遷《しばせん》は太史令《たいしれい》の職を継いだ。父の蒐集《しゅうしゅう》した資料と、宮廷所蔵の秘冊とを用いて、すぐにも父子相伝《ふしそうでん》の天職にとりかかりたかった
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