れに、山上に靡《なび》いていた旗印から見れば、紛れもなく単于《ぜんう》の親衛軍である。単于がいるものとすれば、八万や十万の後詰《ごづ》めの軍は当然繰出されるものと覚悟せねばならぬ。李陵は即刻この地を撤退して南へ移ることにした。それもここから東南二千里の受降城《じゅこうじょう》へという前日までの予定を変えて、半月前に辿《たど》って来たその同じ道を南へ取って一日も早くもとの居延塞《きょえんさい》(それとて千数百里離れているが)に入ろうとしたのである。
 南行三日めの午《ひる》、漢軍の後方はるか北の地平線に、雲のごとく黄塵《こうじん》の揚がるのが見られた。匈奴騎兵の追撃である。翌日はすでに八万の胡兵が騎馬の快速を利して、漢軍の前後左右を隙《すき》もなく取囲んでしまっていた。ただし、前日の失敗に懲《こ》りたとみえ、至近の距離にまでは近づいて来ない。南へ行進して行く漢軍を遠巻きにしながら、馬上から遠矢を射かけるのである。李陵が全軍を停《と》めて、戦闘の体形をとらせれば、敵は馬を駆って遠く退き、搏戦《はくせん》を避ける。ふたたび行軍をはじめれば、また近づいて来て矢を射かける。行進の速度が著しく減ず
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