みのためしょうとなってきょうどにふるう》
路窮絶兮矢刃摧《みちきゅうぜつししじんくだけ》
士衆滅兮名已※[#「こざと+貴」、第3水準1−93−63]《ししゅうほろびなすでにおつ》
老母已死《ろうぼすでにしす》雖欲報恩将安帰《おんにむくいんとほっするもまたいずくにかかえらん》
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 歌っているうちに、声が顫《ふる》え涙が頬《ほお》を伝わった。女々《めめ》しいぞと自《みずか》ら叱《しか》りながら、どうしようもなかった。
 蘇武《そぶ》は十九年ぶりで祖国に帰って行った。

 司馬遷《しばせん》はその後も孜々《しし》として書き続けた。
 この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ活《い》きていた。現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が、魯仲連《ろちゅうれん》の舌端《ぜったん》を借りてはじめて烈々《れつれつ》と火を噴くのである。あるいは伍子胥《ごししょ》となって己《おの》が眼を抉《えぐ》らしめ、あるいは藺相如《りんしょうじょ》となって秦王《しんおう》を叱《しっ》し、あるいは太子丹《たいしたん》となって泣いて荊軻《けいか》を送った。楚《そ》の屈原《くつげん》の憂憤《うっぷん》を叙して、そのまさに汨羅《べきら》に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦《かいさのふ》を長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしても己《おのれ》自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。
 稿を起こしてから十四年、腐刑《ふけい》の禍《わざわい》に遭《あ》ってから八年。都では巫蠱《ふこ》の獄が起こり戻太子《れいたいし》の悲劇が行なわれていたころ、父子相伝《ふしそうでん》のこの著述がだいたい最初の構想どおりの通史《つうし》がひととおりでき上がった。これに増補|改刪《かいさん》推敲《すいこう》を加えているうちにまた数年がたった。史記《しき》百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでに武帝《ぶてい》の崩御《ほうぎょ》に近いころであった。
 列伝《れつでん》第七十|太史公《たいしこう》自序の最後の筆を擱《お》いたとき、司馬遷は几《き》に凭《よ》ったまま惘然《ぼうぜん》とした。深い溜息《ためいき》が腹の底から出た。目は庭前の槐樹《えんじゅ》の茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。うつろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹の蝉《せみ》の声に耳をすましているようにみえた。歓《よろこ》びがあるはずなのに気の抜けた漠然《ばくぜん》とした寂しさ、不安のほうが先に来た。
 完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終わると急に酷《ひど》い虚脱の状態が来た。憑依《ひょうい》の去った巫者《ふしゃ》のように、身も心もぐったりとくずおれ、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように耄《ふ》けた。武帝の崩御《ほうぎょ》も昭帝の即位もかつてのさきの太史令《たいしれい》司馬遷《しばせん》の脱殻《ぬけがら》にとってはもはやなんの意味ももたないように見えた。
 前に述べた任立政《じんりっせい》らが胡地《こち》に李陵《りりょう》を訪《たず》ねて、ふたたび都に戻って来たころは、司馬遷はすでにこの世に亡《な》かった。

 蘇武《そぶ》と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。元平《げんぺい》元年に胡地《こち》で死んだということのほかは。
 すでに早く、彼と親しかった狐鹿姑《ころくこ》単于《ぜんう》は死に、その子|壺衍※[#「革+是」、第3水準1−93−79]《こえんてい》単于の代となっていたが、その即位にからんで左賢王《さけんおう》、右谷蠡王《うろくりおう》の内紛があり、閼氏《えんし》や衛律《えいりつ》らと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像に難《かた》くない。
 漢書《かんじょ》の匈奴伝《きょうどでん》には、その後、李陵の胡地で儲《もう》けた子が烏籍都尉《うせきとい》を立てて単于とし、呼韓邪《こかんや》単于《ぜんう》に対抗してついに失敗した旨が記されている。宣帝《せんてい》の五鳳《ごほう》二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。



底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫、角川書店
   1968(昭和43)年9月10日改版初版発行
   1998(平成10)年5月30日改版52版発行
入力:佐野良二
校正:松永正敏
2001年3月14日公開
2005年11月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボラン
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