》。常ニ幸セラレテ従フ。駿馬《しゅんめ》名ハ騅《すい》、常ニ之《これ》ニ騎ス。是《ここ》ニ於《おい》テ項王|乃《すなわ》チ悲歌|慷慨《こうがい》シ自ラ詩ヲ為《つく》リテ曰《いわ》ク「力山ヲ抜キ気世ヲ蓋《おお》フ、時利アラズ騅|逝《ゆ》カズ、騅逝カズ奈何《いかん》スベキ、虞ヤ虞ヤ若《なんじ》ヲ奈何《いか》ニセン」ト。歌フコト数|※[#「門<癸」、第3水準1−93−53]《けつ》、美人之ニ和ス。項王|泣《なみだ》数行下ル。左右皆泣キ、能《よ》ク仰ギ視《み》ルモノ莫《な》シ……。
 これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか? 彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかしなんと生気|溌剌《はつらつ》たる述べ方であったか? 異常な想像的視覚を有《も》った者でなければとうてい不能な記述であった。彼は、ときに「作ル」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を止《や》める。これで、「作ル」ことになる心配はないわけである。しかし、(と司馬遷が思うに)これでは項羽《こうう》が項羽でなくなるではないか。項羽も始皇帝《しこうてい》も楚《そ》の荘王《そうおう》もみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけにはいかない。元どおりに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。そこにかかれた史上の人物が、項羽や樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]《はんかい》や范増《はんぞう》が、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。
 調子のよいときの武帝《ぶてい》は誠《まこと》に高邁闊達《こうまいかったつ》な・理解ある文教の保護者だったし、太史令《たいしれい》という職が地味な特殊な技能を要するものだったために、官界につきものの朋党比周《ほうとうひしゅう》の擠陥讒誣《せいかんざんぶ》による地位(あるいは生命)の不安定からも免れることができた。
 数年の間、司馬遷は充実した・幸福といっていい日々を送った。(当時の人間の考える幸福とは、現代人のそれと、ひどく内容の違うものだったが、それを求めることに変わりはない。)妥協性はなかったが、どこまでも陽性で、よく論じよく怒りよく笑いなかんずく論敵を完膚《かんぷ》なきまでに説破することを最も得意としていた。
 さて、そうした数年ののち、突然、この禍《わざわい》が降《くだ》ったのである。

 薄暗い蚕室《さんしつ》の中で――腐刑《ふけい》施術後当分の間は風に当たることを避けねばならぬので、中に火を熾《おこ》して暖かに保った・密閉した暗室を作り、そこに施術後の受刑者を数日の間入れて、身体を養わせる。暖かく暗いところが蚕を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名づけるのである。――言語を絶した混乱のあまり彼は茫然《ぼうぜん》と壁によりかかった。憤激よりも先に、驚きのようなものさえ感じていた。斬《ざん》に遭《あ》うこと、死を賜《たま》うことに対してなら、彼にはもとより平生から覚悟ができている。刑死《けいし》する己《おのれ》の姿なら想像してみることもできるし、武帝の気に逆らって李陵《りりょう》を褒《ほ》め上げたときもまかりまちがえば死を賜うようなことになるかもしれぬくらいの懸念《けねん》は自分にもあったのである。ところが、刑罰も数ある中で、よりによって最も醜陋《しゅうろう》な宮刑《きゅうけい》にあおうとは! 迂闊《うかつ》といえば迂闊だが、(というのは、死刑を予期するくらいなら当然、他のあらゆる刑罰も予期しなければならないわけだから)彼は自分の運命の中に、不測の死が待受けているかもしれぬとは考えていたけれども、このような醜いものが突然現われようとは、全然、頭から考えもしなかったのである。常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものを有《も》っていた。これは長い間史実を扱っているうちに自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、慷慨《こうがい》の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒《と》には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである。たとえ始めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処のし方によってその運命はその人間にふさわしいことが判《わか》ってくるのだと。司馬遷《しばせん》は自分を男[#「男」に傍点]だと
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