じん》ばらが、この陵の一失《いっしつ》を取上げてこれを誇大|歪曲《わいきょく》しもって上《しょう》の聡明を蔽《おお》おうとしているのは、遺憾《いかん》この上もない。そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴《きょうど》数万の師を奔命《ほんめい》に疲れしめ、転戦千里、矢尽き道|窮《きわ》まるに至るもなお全軍|空弩《くうど》を張り、白刃《はくじん》を冒して死闘している。部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、古《いにしえ》の名将といえどもこれには過ぎまい。軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして虜《ろ》に降《くだ》ったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。……
 並いる群臣は驚いた。こんなことのいえる男が世にいようとは考えなかったからである。彼らはこめかみを顫《ふる》わせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分らをあえて全躯保妻子《くをまっとうしさいしをたもつ》の臣と呼んだこの男を待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである。
 向こう見ずなその男――太史令《たいしれい》・司馬遷《しばせん》が君前を退くと、すぐに、「全躯保妻子《くをまっとうしさいしをたもつ》の臣」の一人が、遷《せん》と李陵《りりょう》との親しい関係について武帝の耳に入れた。太史令は故《ゆえ》あって弐師《じし》将軍と隙《げき》あり、遷が陵を褒《ほ》めるのは、それによって、今度、陵に先立って出塞《しゅっさい》して功のなかった弐師将軍を陥《おとしい》れんがためであると言う者も出てきた。ともかくも、たかが星暦卜祀《せいれきぼくし》を司《つかさど》るにすぎぬ太史令の身として、あまりにも不遜《ふそん》な態度だというのが、一同の一致した意見である。おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、彼は廷尉《ていい》に下された。刑は宮《きゅう》と決まった。
 支那《しな》で昔から行なわれた肉刑《にくけい》の主《おも》なるものとして、黥《けい》、※[#「鼻+りっとう」、第3水準1−14−65]《ぎ》(はなきる)、※[#「非+りっとう」、第4水準2−3−25]《ひ》(あしきる)、宮《きゅう》、の四つがある。武帝の祖父・文帝《ぶんてい》のとき、この四つのうち三つまでは廃せられたが、宮刑《きゅうけい》のみはそのまま残された。宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に腐刑《ふけい》ともいうのは、その創《きず》が腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、腐木《ふぼく》の実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を閹人《えんじん》と称し、宮廷の宦官《かんがん》の大部分がこれであったことは言うまでもない。人もあろうに司馬遷《しばせん》がこの刑に遭《あ》ったのである。しかし、後代の我々が史記《しき》の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令《たいしれい》司馬遷は眇《びょう》たる一文筆の吏《り》にすぎない。頭脳の明晰《めいせき》なことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人《ひと》に負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人《へんくつじん》としてしか知られていなかった。彼が腐刑《ふけい》に遇《あ》ったからとて別に驚く者はない。
 司馬氏は元《もと》周《しゅう》の史官であった。後、晋《しん》に入り、秦《しん》に仕え、漢《かん》の代となってから四代目の司馬談《しばたん》が武帝に仕えて建元《けんげん》年間に太史令《たいしれい》をつとめた。この談が遷の父である。専門たる律《りつ》・暦《れき》・易《えき》のほかに道家《どうか》の教えに精《くわ》しくまた博《ひろ》く儒《じゅ》、墨《ぼく》、法《ほう》、名《めい》、諸家《しょか》の説にも通じていたが、それらをすべて一家の見《けん》をもって綜《す》べて自己のものとしていた。己《おのれ》の頭脳や精神力についての自信の強さはそっくりそのまま息子《むすこ》の遷に受嗣《うけつ》がれたところのものである。彼が、息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、海内《かいだい》の大旅行をさせたことであった。当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない。
 元封《げんぽう》元年に武帝が東、泰山《たいざん》に登って天を祭ったとき、たまたま周南《しゅうなん》で病床にあった熱血漢《ねっけつかん》司馬談《しばたん》は、天子始めて漢家の封《ほう》を建つるめでたきときに、己《おのれ》一人従ってゆくことのできぬのを慨《なげ》き、憤を発してそのために死んだ。古今を一貫
前へ 次へ
全23ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング