にこれを援《たす》けしめた。ひいて因※[#「木+于」、39−13]《いんう》将軍|公孫敖《こうそんごう》は騎一万歩三万をもって雁門を、游撃《ゆうげき》将軍|韓説《かんせつ》は歩三万をもって五原《ごげん》を、それぞれ進発する。近来にない大|北伐《ほくばつ》である。単于《ぜんう》はこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとく余吾水《しょごすい》(ケルレン河)北方の地に移し、自《みずか》ら十万の精騎を率いて李広利《りこうり》・路博徳《ろはくとく》の軍を水南《すいなん》の大草原に邀《むか》え撃った。連戦十余日。漢軍はついに退くのやむなきに至った。李陵《りりょう》に師事する若き左賢王《さけんおう》は、別に一隊を率いて東方に向かい因※[#「木+于」、39−18]《いんう》将軍を迎えてさんざんにこれを破った。漢軍の左翼たる韓説《かんせつ》の軍もまた得るところなくして兵を引いた。北征は完全な失敗である。李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに気遣《きづか》っている己《おのれ》を発見して愕然《がくぜん》とした。もちろん、全体としては漢軍の成功と匈奴《きょうど》の敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。
 その左賢王に打破られた公孫敖《こうそんごう》が都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとの廉《かど》で牢《ろう》に繋《つな》がれたとき、妙な弁解をした。敵の捕虜《ほりょ》が、匈奴軍の強いのは、漢から降《くだ》った李《り》将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍が敗《ま》けたことの弁解にはならないから、もちろん、因※[#「木+于」、40−8]《いんう》将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび獄《ごく》に収められ、今度は、陵の老母から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された。軽薄なる世人の常とて、当時|隴西《ろうせい》(李陵の家は隴西の出である)の士大夫《したいふ》ら皆李家を出したことを恥としたと記されている。
 この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致《ら
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