きものと思い込む必要があったのである。
 五《いつ》月ののち、司馬遷はふたたび筆を執《と》った。歓《よろこ》びも昂奮《こうふん》もない・ただ仕事の完成への意志だけに鞭打《むちう》たれて、傷ついた脚を引摺《ひきず》りながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いでいく。もはや太史令の役は免ぜられていた。些《いささ》か後悔した武帝が、しばらく後に彼を中書令《ちゅうしょれい》に取立てたが、官職の黜陟《ちゅっちょく》のごときは、彼にとってもうなんの意味もない。以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることもない。しかし、けっして悄然《しょうぜん》たる姿ではなかった。むしろ、何か悪霊《あくりょう》にでも取り憑《つ》かれているようなすさまじさ[#「すさまじさ」に傍点]を、人々は緘黙《かんもく》せる彼の風貌《ふうぼう》の中に見て取った。夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人らには思われた。
 凄惨《せいさん》な努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることの歓《よろこ》びを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。しかし、そのころになってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、風貌《ふうぼう》の中のすさまじさも全然|和《やわ》らげられはしない。稿をつづけていくうちに、宦者《かんじゃ》とか閹奴《えんど》とかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えず呻《うめ》き声を発した。独り居室にいるときでも、夜、牀上《しょうじょう》に横になったときでも、ふとこの屈辱の思いが萌《きざ》してくると、たちまちカーッと、焼鏝《やきごて》をあてられるような熱い疼《うず》くものが全身を駈《か》けめぐる。彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺《あたり》を歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばって己《おのれ》を落ちつけようと努めるのである。

       三

 乱軍の中に気を失った李陵《りりょう》が獣脂《じゅうし》を灯《とも》し獣糞《じゅうふん》を焚《た》いた単于《ぜんう》の帳房《ちょうぼう》の中で目を覚ましたとき、咄嗟《とっさ》に彼は心を決めた。自《みずか》ら首|刎《は》ねて辱《はずか》しめを免れるか、それとも今一応は敵に
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