頼むべきは、今は甘蠅師の外にあるまいと。
紀昌はすぐに西に向って旅立つ。その人の前に出ては我々の技のごとき児戯にひとしいと言った師の言葉が、彼の自尊心にこたえた。もしそれが本当だとすれば、天下第一を目指す彼の望も、まだまだ前途《ぜんと》程遠《ほどとお》い訳である。己が業《わざ》が児戯に類するかどうか、とにもかくにも早くその人に会って腕を比べたいとあせりつつ、彼はひたすらに道を急ぐ。足裏を破り脛《すね》を傷つけ、危巌《きがん》を攀じ桟道《さんどう》を渡って、一月の後に彼はようやく目指す山顛《さんてん》に辿《たど》りつく。
気負い立つ紀昌を迎《むか》えたのは、羊のような柔和《にゅうわ》な目をした、しかし酷《ひど》くよぼよぼの爺《じい》さんである。年齢は百歳をも超《こ》えていよう。腰《こし》の曲っているせいもあって、白髯《はくぜん》は歩く時も地に曳《ひ》きずっている。
相手が聾《ろう》かも知れぬと、大声に遽だしく紀昌は来意を告げる。己が技の程を見てもらいたいむねを述べると、あせり立った彼は相手の返辞をも待たず、いきなり背に負うた楊幹麻筋《ようかんまきん》の弓を外して手に執《と》った。
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