。そのわけ[#「わけ」に傍点]を訊《たず》ねた一人に答えて、紀昌は懶《ものう》げに言った。至為《しい》は為《な》す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。なるほどと、至極《しごく》物分《ものわか》りのいい邯鄲の都人士はすぐに合点《がてん》した。弓を執らざる弓の名人は彼等の誇《ほこり》となった。紀昌が弓に触《ふ》れなければ触れないほど、彼の無敵の評判はいよいよ喧伝《けんでん》された。
 様々な噂《うわさ》が人々の口から口へと伝わる。毎夜|三更《さんこう》を過ぎる頃《ころ》、紀昌の家の屋上《おくじょう》で何者の立てるとも知れぬ弓弦の音がする。名人の内に宿る射道の神が主人公の睡《ねむ》っている間に体内を脱《ぬ》け出し、妖魔《ようま》を払《はら》うべく徹宵《てっしょう》守護《しゅご》に当っているのだという。彼の家の近くに住む一商人はある夜紀昌の家の上空で、雲に乗った紀昌が珍《めずら》しくも弓を手にして、古《いにしえ》の名人・※[#「羽/廾」、第3水準1−90−29]《げい》と養由基の二人を相手に腕比べをしているのを確かに見たと言い出した。その時三名人の放った矢はそれぞれ夜空に青白い光芒《こ
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