頼むべきは、今は甘蠅師の外にあるまいと。

 紀昌はすぐに西に向って旅立つ。その人の前に出ては我々の技のごとき児戯にひとしいと言った師の言葉が、彼の自尊心にこたえた。もしそれが本当だとすれば、天下第一を目指す彼の望も、まだまだ前途《ぜんと》程遠《ほどとお》い訳である。己が業《わざ》が児戯に類するかどうか、とにもかくにも早くその人に会って腕を比べたいとあせりつつ、彼はひたすらに道を急ぐ。足裏を破り脛《すね》を傷つけ、危巌《きがん》を攀じ桟道《さんどう》を渡って、一月の後に彼はようやく目指す山顛《さんてん》に辿《たど》りつく。
 気負い立つ紀昌を迎《むか》えたのは、羊のような柔和《にゅうわ》な目をした、しかし酷《ひど》くよぼよぼの爺《じい》さんである。年齢は百歳をも超《こ》えていよう。腰《こし》の曲っているせいもあって、白髯《はくぜん》は歩く時も地に曳《ひ》きずっている。
 相手が聾《ろう》かも知れぬと、大声に遽だしく紀昌は来意を告げる。己が技の程を見てもらいたいむねを述べると、あせり立った彼は相手の返辞をも待たず、いきなり背に負うた楊幹麻筋《ようかんまきん》の弓を外して手に執《と》った。そうして、石碣《せきけつ》の矢をつがえると、折から空の高くを飛び過ぎて行く渡り鳥の群に向って狙いを定める。弦に応じて、一箭《いっせん》たちまち五|羽《わ》の大鳥が鮮《あざ》やかに碧空《へきくう》を切って落ちて来た。
 一通り出来るようじゃな、と老人が穏《おだや》かな微笑を含《ふく》んで言う。だが、それは所詮《しょせん》射之射《しゃのしゃ》というもの、好漢いまだ不射之射《ふしゃのしゃ》を知らぬと見える。
 ムッとした紀昌を導いて、老隠者《ろういんじゃ》は、そこから二百歩ばかり離《はな》れた絶壁《ぜっぺき》の上まで連れて来る。脚下《きゃっか》は文字通りの屏風《びょうぶ》のごとき壁立千仭《へきりつせんじん》、遥か真下に糸のような細さに見える渓流《けいりゅう》をちょっと覗いただけでたちまち眩暈《めまい》を感ずるほどの高さである。その断崖《だんがい》から半《なか》ば宙に乗出した危石の上につかつかと老人は駈上り、振返《ふりかえ》って紀昌に言う。どうじゃ。この石の上で先刻の業を今一度見せてくれぬか。今更|引込《ひっこみ》もならぬ。老人と入代りに紀昌がその石を履《ふ》んだ時、石は微《かす》かにグラリと揺《ゆ》らいだ。強《し》いて気を励《はげ》まして矢をつがえようとすると、ちょうど崖《がけ》の端《はし》から小石が一つ転がり落ちた。その行方《ゆくえ》を目で追うた時、覚えず紀昌は石上に伏《ふ》した。脚《あし》はワナワナと顫《ふる》え、汗《あせ》は流れて踵《かかと》にまで至った。老人が笑いながら手を差し伸《の》べて彼を石から下し、自ら代ってこれに乗ると、では射というものをお目にかけようかな、と言った。まだ動悸《どうき》がおさまらず蒼《あお》ざめた顔をしてはいたが、紀昌はすぐに気が付いて言った。しかし、弓はどうなさる? 弓は? 老人は素手《すで》だったのである。弓? と老人は笑う。弓矢の要《い》る中はまだ射之射じゃ。不射之射には、烏漆《うしつ》の弓も粛慎《しゅくしん》の矢もいらぬ。
 ちょうど彼|等《ら》の真上、空の極めて高い所を一羽の鳶《とび》が悠々《ゆうゆう》と輪を画《えが》いていた。その胡麻粒《ごまつぶ》ほどに小さく見える姿をしばらく見上げていた甘蠅が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがえ、満月のごとくに引絞ってひょう[#「ひょう」に傍点]と放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石のごとくに落ちて来るではないか。
 紀昌は慄然《りつぜん》とした。今にして始めて芸道の深淵《しんえん》を覗き得た心地であった。
 九年の間、紀昌はこの老名人の許に留《とど》まった。その間いかなる修業を積んだものやらそれは誰《だれ》にも判《わか》らぬ。
 九年たって山を降りて来た時、人々は紀昌の顔付の変ったのに驚いた。以前の負けず嫌《ぎら》いな精悍《せいかん》な面魂《つらだましい》はどこかに影《かげ》をひそめ、なんの表情も無い、木偶《でく》のごとく愚者《ぐしゃ》のごとき容貌《ようぼう》に変っている。久しぶりに旧師の飛衛を訪ねた時、しかし、飛衛はこの顔付を一見すると感嘆《かんたん》して叫《さけ》んだ。これでこそ初めて天下の名人だ。我儕《われら》のごとき、足下《あしもと》にも及ぶものでないと。
 邯鄲の都は、天下一の名人となって戻って来た紀昌を迎《むか》えて、やがて眼前に示されるに違いないその妙技への期待に湧返った。
 ところが紀昌は一向にその要望に応《こた》えようとしない。いや、弓さえ絶えて手に取ろうとしない。山に入る時に携《たずさ》えて行った楊幹麻筋の弓もどこかへ棄《す》てて来た様子である
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