昌は直ぐに氣が付いて言つた。しかし、弓はどうなさる? 弓は? 老人は素手だつたのである。弓? と老人は笑ふ。弓矢の要る中はまだ射之射ぢや。不射之射には、烏漆の弓も肅愼の矢もいらぬ。
 丁度彼等の眞上、空の極めて高い所を一羽の鳶が悠々と輪を畫いてゐた。その胡麻粒ほどに小さく見える姿を暫く見上げてゐた甘蠅が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがへ、滿月の如くに引絞つてひよう[#「ひよう」に傍点]と放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石の如くに落ちて來るではないか。
 紀昌は慄然とした。今にして始めて藝道の深淵を覗き得た心地であつた。

 九年の間、紀昌は此の老名人の許に留まつた。その間如何なる修業を積んだものやらそれは誰にも判らぬ。
 九年たつて山を降りて來た時、人々は紀昌の顏付の變つたのに驚いた。以前の負けず嫌ひな精悍な面魂は何處かに影をひそめ、何の表情も無い、木偶の如く愚者の如き容貌に變つてゐる。久しぶりに舊師の飛衞を訪ねた時、しかし、飛衞はこの顏付を一見すると感嘆して叫んだ。之でこそ天下の名人だ。我儕《われら》の如き、足下にも及ぶものでないと。
 邯鄲の都は、天下一の名人になつて戻つて來た紀昌を迎へて、やがて眼前に示されるに違ひない其の妙技への期待に湧返つた。
 所が紀昌は一向に其の要望に應へようとしない。いや、弓さへ絶えて手に取らうとしない。山に入る時に携へて行つた楊幹麻筋の弓も何處かへ棄てて來た樣子である。其のわけ[#「わけ」に傍点]を訊ねた一人に答へて、紀昌は懶げに言つた。至爲は爲す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。成程と、至極物分りのいい邯鄲の都人士は直ぐに合點した。弓を執らざる弓の名人は彼等の誇となつた。紀昌が弓に觸れなければ觸れない程、彼の無敵の評判は愈※[#二の字点、1−2−22]喧傳された。
 樣々な噂が人々の口から口へと傳はる。毎夜三更を過ぎる頃、紀昌の家の屋上で何者の立てるとも知れぬ弓弦の音がする。名人の内に宿る射道の神が主人公の睡つてゐる間に體内を脱け出し、妖魔を拂ふべく徹宵守護に當つてゐるのだといふ。彼の家の近くに住む一商人は或夜紀昌の家の上空で、雲に乘つた紀昌が珍しくも弓を手にして、古の名人・※[#「栩のつくり/廾」、第3水準1−90−29]《けい》と養由基の二人を相手に腕比べをしてゐるのを確かに見たと言ひ出した。その時三名人の放つた矢はそれぞれ夜空に青白い光芒を曳きつつ參宿と天狼星との間に消去つたと。紀昌の家に忍び入らうとした所、塀に足を掛けた途端に一道の殺氣が森閑とした家の中から奔り出てまとも[#「まとも」に傍点]に額を打つたので、覺えず外に顛落したと白状した盜賊もある。爾來、邪心を抱く者共は彼の住居の十町四方は避けて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り道をし、賢い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなつた。
 雲と立罩める名聲の只中に、名人紀昌は次第に老いて行く。既に早く射を離れた彼の心は、益※[#二の字点、1−2−22]枯淡虚靜の域にはひつて行つたやうである。木偶の如き顏は更に表情を失ひ、語ることも稀となり、つひには呼吸の有無さへ疑はれるに至つた。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思はれる。」といふのが老名人晩年の述懷である。
 甘蠅師の許を辭してから四十年の後、紀昌は靜かに、誠に煙の如く靜かに世を去つた。その四十年の間、彼は絶えて射を口にすることが無かつた。口にさへしなかつた位だから、弓矢を執つての活動などあらう筈が無い。勿論、寓話作者としてはここで老人に掉尾の大活躍をさせて、名人の眞に名人たる所以を明らかにしたいのは山々ながら、一方、又、何としても古書に記された事實を曲げる譯には行かぬ。實際、老後の彼に就いては唯無爲にして化したとばかりで、次の樣な妙な話の外には何一つ傳はつてゐないのだから。
 その話といふのは、彼の死ぬ一、二年前のことらしい。或日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行つた所、その家で一つの器具を見た。確かに見憶えのある道具だが、どうしても其の名前が思出せぬし、其の用途も思ひ當らない。老人は其の家の主人に尋ねた。それは何と呼ぶ品物で、又何に用ひるのかと。主人は、客が冗談を言つてゐるとのみ思つて、ニヤリととぼけ[#「とぼけ」に傍点]た笑ひ方をした。老紀昌は眞劍になつて再び尋ねる。それでも相手は曖昧な笑を浮べて、客の心をはかりかねた樣子である。三度紀昌が眞面目な顏をして同じ問を繰返した時、始めて主人の顏に驚愕の色が現れた。彼は客の眼を凝乎《じつ》と見詰める。相手が冗談を言つてゐるのでもなく、氣が狂つてゐるのでもなく、又自分が聞き違へをしてゐるのでもないことを確かめると、彼は殆ど恐怖に近い狼狽を示して、吃りながら叫ん
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