の大山に籠るのだという。大山の神主某の所へ行って、しばらく病を養うのだという。伯父はその二、三年前から時々腸出血などをしていた。それを七十を越した伯父は、気力一つで医者にもかからずに持ちこたえていたのである。その出血が近頃ますます烈しいという。そんなに弱っている身体が、何かにつけて不自由な山などへ籠っては、ますます不可《いけ》ないことは明らかなのであるが、それを言うと、どんなに機嫌を悪くするか分らないようなその頃の伯父であったので、三造も黙っているより外はなかった。それに荷物はもう、先へ向けて送ってあるのだと伯父はいっていた。しばらく、そのことを話している中《うち》に、伯父は、三造の右の眼の縁に残っている傷痕をみつけて、やっと彼の怪我のことを思い出したらしく、その工合《ぐあい》をたずねた。と、それに対する彼の答をろくに聞きもしないで、「これから床屋へ行って来る。今、道で見てきたから場所は分っている。」と言い出した。見るとなるほど、髯《ひげ》が――みんな白が黄に染まっているのだが――ひどく伸びている。頭髪はそれほど薄くはなく、殊に両耳の上のあたりはかなり長く伸びて乱れている。長寿の印しといわれる、長くぴん[#「ぴん」に傍点]と突き出た眉の下に、大きい眼がくぼんでいる。三造はその眼を前から美しいと思っていた。この伯父と、それから、そのすぐ下の伯父――その牛若丸のような髪を結った隠者のようなお髯の伯父と、この二人の老人の眼は、それぞれに違った趣をもってはいるが、共に童貞にだけしか見られない浄《きよ》らかさを持って、いつも美しく澄んでいるのである。一つは、いつも実現されない夢を見ている人間の眼で、それからもう一つは、すっかりおちつき切って自然の一部になってしまったような人間の眼である。この二人の伯父を並べて見るたびに、三造はバルザックの『従兄ポンス』を思い出す。もちろん、上の伯父はポンスよりも気性が烈しく、下の伯父はシュムケよりも更に東洋的な諦観をより多くもち合せているのではあるけれども。
伯父はそそくさと[#「そそくさと」に傍点]ころがるようにして階段を下りて行った。ついて行くと、伯父はもう下宿の下駄をつっかけて出てしまったあとで、帳場で主婦《かみ》さんと女中が笑っていた。
一時間ほどして帰って来た伯父はすっかり綺麗《きれい》になっていた。着物の前は合っていなかったけれども、袴《はかま》はキチンと結ばれ、とおった鼻筋とはっきり見ひらかれた眼とは彼を上品な老人に見せている。顔の肌も洗われたばかりで、老人らしい汚点《しみ》もなく黄色く光って見える。二人はまた火鉢の側に坐りこんで、しばらく話をした。彼らの親戚たちの噂話。その頃|支那《シナ》からやって来た天才的な少年棋士のこと。新聞将棋のこと。日本の漢詩人のこと。支那の政局のこと。その中に何かの拍子で共産主義のことが出た時、伯父は、『資本論』の原本をその中に誰かに借りて来てくれ、と言い出した。また始まったなと彼は思った。このような実行力を伴わない東洋壮士的豪語がいつも彼を腹立たせるのである。なに、マルクスが正しい独乙《ドイツ》語さえ書いていれば俺にだって分るさ、と、彼の顔色を見たのか、伯父はそんなことまで附け加えた。彼は伯父が早くこの話を切上げてくれるように、と念じながら、黙って火箸で灰に字を書いているより外はなかった。その中に突然伯父は、急に気が付いたような様子で「傘を買って来てくれ。」と言う。降っているんですか、と聞きながら障子をあけて外を見ようとすると、今は降ってはいないけれども、とにかく要《い》るものだからと伯父は言った。そうして蟇口《がまぐち》から五十銭銀貨を一枚出して、何処《どこ》とかで、五十銭の蛇の目を見たから、そういうのを一本買って来てもらいたいといって、変な顔をしている三造にそれを渡すのであった。三造は女中を呼び、自分の財布から、そっと五十銭銀貨二枚を出して、それに附加え、買って来るように頼んだ。女中はすぐに表へ出て行ったが、やがて細目の紺の蛇の目を持って帰って来た。伯父はそれを、いきなり狭い四畳半で拡げて見て、なるほど、東京は近頃物が安いと言った。
間もなく伯父は、もう大山へ行くのだと言い出した。何時の汽車ですと、あやうく聞こうとした彼は、伯父が決して汽車の時間を調べない人間だったことを、ひょいと思い出した。伯父は、どんな大旅行をする時でも、時計など持ったことがないのである。
彼は東京駅まで送るつもりで、制服に着換え始めた。伯父はそれが待ちきれないで、例の大きなバスケットを提げて部屋の外へ出ると、急いで階段を下りて行った。と、先刻《さっき》の蛇の目を忘れたことに気がついたらしく、階下《した》から「三造さん。傘! 傘!」と大きな声がした。彼は面喰《めんくら》った。いまだかつて伯父は彼の事を「さん」づけにして呼んだことはなかったはずである。いつも三造、三造の呼棄《よびすて》であった。彼は、その伯父の呼方の変化に、伯父の気力の衰えを見たというよりは、何かしら伯父の精神状態が異常になっているのではないかというような不安が感じられて、ギョッとしながら、傘をもって階段を下りて行った。
表へ出ると伯父は円タクを呼んだ。どうせ文求堂に置いてある荷物も持って行くのだからと伯父は言いわけのような調子で言った。支那風の扉をつけた文求堂の裏口で車を停めると、中から店の人が、がんじがらめ[#「がんじがらめ」に傍点]にした行李《こうり》を一つ車の中へ運んでくれた。
車が東京駅に近づいた頃、伯父は彼に向って何か早口で言った。――伯父は非常に聴き取りにくい早弁で、おまけに、それを聞き返されるのが大嫌いであった。――その時も三造は、伯父の言ったことがよくわからなかったので聞えないという風をして伯父の顔を見返した。伯父はいらだたしそうに、今度は、右手は人差指一本、左手は人差指と中指をそろえて、あげて見せた。この禅問答のような仕草は、三造にはますます何のことやら分らなかったけれど、とにかく無意味にうなずいて見せた。伯父はやっと気がすんだような顔をして硝子窓の外に眼を外らせた。駅について助手に荷物を運ばせている時、ふと三造は、伯父が運転手に何も聞かずに一円二十銭――たしかに、それは一円二十銭――払っているのを見た。三造は驚いた。(昭和五年当時、円タクは市内五十銭に決っていたものだ。)やっと、さっきの指の意味が分った。右の一本は一円――円タクというからには一円にきまっていると伯父は考えたのだ――で、左の二本は二十銭だったのである。彼も今更とめるわけにも行かず微笑《わら》いながら伯父の動作を眺めていた。三造などに聞かなくとも、この大都会の交通機関の習慣位は、ちゃんと心得ているぞと言った風な、いかにも満足げに見える伯父の顔つきを。恐らく、伯父は、割増一人ごとに二十銭と書いてあるのを何処かで見たのでもあろうか。
それから一月ほどたって、大山から手紙が来た。身体の工合がますますよくないこと、一日に何回も腸出血があると言うことなどが認《したた》められていた。が、「瀕死」とか「死期が近づいた」とか言う字句が彼に何か実感の伴わないものを感じさせると同時に、かえってそういうことを言う伯父の病態に楽観的な気持を抱かせたし、また、宿のものの待遇の悪さをしきりに罵っているその手紙の口調からしても、伯父の元気の衰えてはいないらしいことが察せられたので、彼はその報知を大して気にもかけなかったのである。ところが更にそれから半月ほどして、今度は葉書で、簡単に、山では病が養えないから大阪へ――大阪には彼の従姉が(伯父からいえば姪だが)いた――行きたいのだが、今では身体がほとんど利かないから、大阪まで送ってもらいたい、老人の最後の頼みだと思って、是非すぐに大山に迎えに来てほしい、と書かれたのを受取った時、彼は全く当惑した。一体、そのような病人を大阪まで運んでいいものかどうか。それに、どうしてまあ、伯父は大阪へなど行く気になったものか。なるほどその大阪の従姉は子供の時から伯父には色々と世話になったのであるし、また従姉自身、人の面倒を見るのが好きな性質ではあるが、何といってもそれは、従姉の夫の家ではないか。おまけに、その姪の夫を伯父は常々、馬鹿だ(ということは、つまりこの場合漢学の素養がないと言うことになるのであるが)云《い》い云《い》いしていたのである。その男の所へ行こうなどと言い出す。これは少し変だぞと三造は考えた。前の手紙には驚かなかった彼も、この伯父の大阪行の決心の中に、伯父の病気の重態さの動かすことのできない証拠を見たように思って、少からずあわてたのである。が、それにしても、とにかく大阪まで行かせることは何としてもいけないと思った。病気を養うのならば、何も大阪まで行かなくとも、自分の弟が――三造にとってはやはりこれも伯父だが――洗足にいるのである。三造はすぐにその葉書をもって洗足へ出かけた。洗足の伯父も彼と同意見であった。自分の家へ来るように勧めるために、その伯父は翌朝大山へ行った。が、午後になって手を空しゅうして帰って来た。どうしても(理窟なしに)大阪へ行くと言ってきかないのだそうである。もう、ああ言い出しては仕方がないから、と言って、洗足の伯父は彼に大阪行の旅費を与えた。
翌日、三造は小田急で大山へ行った。その神主の家はすぐ分った。通されて二階に上ると、伯父は座敷の真中の蒲団の上に起きて、古ぼけた脇息《きょうそく》に凭《もた》れて坐っていた。伯父は三造を見ると非常に――滅多に見せたことのないほどの――嬉しそうな顔をした。それが何だか三造を不安にした。荷物はすっかりととのえられていた。立つ際になって、封筒に入れて置いた紙幣が一枚、その封筒ごと失《な》くなったといい出した。伯父のなくしものはいつものことである。その時もすぐに、その封筒が部屋のすみの新聞紙の下から出て来た。が、それは半分破れて取れていて、中には、これもやはり破れた十円紙幣が半分だけはいっていた。伯父が反故《ほご》とまちがえて自分で破って捨てたものであることは明らかであった。他の半分は、だが、探しても探しても出て来なかった。伯父は捜索を断念しようとしたけれども、それを聞いて一緒に探しはじめたその神主の家人たちが承知しなかった。探し出して、くっつければ、結構使えるのだからと、そのお内儀《かみ》さんはそう言って、家の裏のごみ[#「ごみ」に傍点]捨場や、その側の竹藪まで、子供たちを探しにやった。「見つかるもんか。馬鹿な。」と伯父は、露骨に不快な顔をして、まるで他人事《ひとごと》のように、彼らの騒ぎ方を罵るのであった。自分自身の失策に対する腹立たしさと、更に、その失策を誇張するかのような仰々しい彼らの騒ぎぶりと、また、自分の金銭に対する恬淡《てんたん》さを彼らが全然理解していないことに対する憤懣《ふんまん》とで、すっかり機嫌を悪くしたまま、伯父はその家を出た。麓《ふもと》までは、三造にも初めての山駕籠《やまかご》であった。あまり強そうにも見えない三十前後の男が前後に一人ずつ、杖をもって時々肩を換えながら、石段路を歩きにくそうに下って行った。三造はそのあとについて歩いた。下り切ってしまうと今度は人力車に乗った。松田の駅に着いた時はもう夕方になっていた。
松田駅の待合室で次の下りを待合せている間、伯父は色々解らないことを言出《いいだ》して三造を弱らせた。その時伯父は珍しく旅行案内を持っていて、(宿の神主が気を利かせて荷物の中に入れておいたものであろう)それで時間を繰りながら、「今、立てば大阪は明日の十時になる」といった。ところが三造が見ると、どうしても七時になっている。そういうと伯父はひどく腹を立てて、よく見ろといった。いくら見ても同じであった。伯父が線を間違えて見ていたのである。三造も少し不愉快になってきたので、赤鉛筆でハッキリ線をひいて伯父の見間違いを説明した。すると伯父は返事をしないで、子供のようにむっ[#「むっ」に傍点]としたまま横を向い
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