に兇漢と変じて、西班牙人を殺害した。之も又、ラガド市の大学を訪れたガリヴァー程に我々を面喰わせはしないであろう。
所が次の様な場合、我々はそれを一体どう考えたらいいのであろうか。例えば、私が一人の土民の老爺と話をしている。たどたどしい私の土民語ではあるが、兎に角一応は先方にも通じるらしく、元来が愛想のいい彼等のこととて、大して可笑《おか》しくもなさそうな事を嬉しそうに笑いながら、老人は頗《すこぶ》る上機嫌に見える。暫くして話に漸《ようや》く油が乗って来たと思われる頃、突然、全く突然、老爺は口を噤《つぐ》む。初め、私は先方が疲れて一息入れているものと考え、静かに相手の答を待つ。しかし、老爺は最早語らぬ。語らぬばかりではない。今迄にこやかだった顔付は急に索然たるものとなり、其の眼も今は私の存在を認めぬものの如くである。何故? 如何なる動機が此の老人をこんな状態に陥れたのか? どんな私の言葉が彼を怒らせたのか? いくら考えて見ても全然見当さえつかない。とにかく、老爺は突然目にも耳にも口にも、或いは心に迄、厚い鎧戸《よろいど》を閉《た》てて了《しま》った。彼は今や古い|石の神像《クリツツム》だ。彼は会話への情熱をプッツリ失ったのだろうか? 異人種の顔が、その匂が、その声が、突然いとわしいものに感じられて来たのだろうか? それともミクロネシヤの古き神々が温帯人の侵入を憤って、不意に此の老人の前に立ち塞がり、彼の目を視れども見えぬものの如く変えて了ったのだろうか。いずれにせよ、我々は、怒鳴っても宥《なだ》めても揺すぶっても決して脱がせることの出来ぬ不思議な仮面の前に茫然とせざるを得ぬ。こうした一時的痴呆の状態は全然本人の自覚を伴わぬものか、それとも、実は極めて巧妙に意識的に張り廻らされた煙幕なのか、それさえまるで見当がつかないのである。
これはほんの一例に過ぎぬ。島民の部落に長い期間を過ごした者は、誰しも之に似た経験を屡々《しばしば》持ったに違いない。南洋に四五年もいて、すっかり島民が判ったなどという人に会うと、私は妙な気がする。椰子の葉摺《はずれ》の音と環礁の外にうねる太平洋の濤《なみ》の響との間に十代も住みつかない限り、到底彼等の気持は分りそうもない気が私にはするからである。
どうも下らない理窟めいたことばかりしゃべり立てたようだ。私は一体何を話すつもりだったんだろう? そうだ。一人の老人、土民の老爺の話をする積りだったのだ。その前置のつもりで、つい斯んな事をしゃべって了ったのであった。
其《そ》の老人はパラオのコロールに住んでいた。ひどく老衰しているように見えたが、実際は六十歳前だったかも知れぬ。南洋の老人の年齢はてんで[#「てんで」に傍点]見当がつかない。当人自らが年齢《とし》を知らぬということにもよるが、それよりも、温帯人に比べて中年から老年にかけて急に烈しく老い込んで了うからである。
マルクープと呼ばれた其の老人は幾分|傴僂《せむし》らしく、何時も前屈みになって乾いた咳《せき》をしながら歩いていた。可笑《おか》しかったのは彼の眼瞼が著しくたるんで下垂していることで、そのために彼は殆ど目をあけていることが出来ない。彼が他人の顔を良く見ようとする時は、顔を心持仰向けた上、人差指と親指とでたるんだ瞼《まぶた》をつまみ上げ、目の前を塞ぐ壁を取除かねばならぬ。それが、何かカーテンかブラインドでも捲上げるような工合《ぐあい》で、私は何時も失笑させられたものである。老人は何故笑われるのか判らないらしく、それでも此方の笑に調子を合わせてニヤニヤ笑い出すのであった。この様な哀れな状《さま》をした愚鈍そうな老爺がとんでもない喰わせものであろうとは、南洋へ来てまだ間も無い私にとって頗《すこぶ》る意外であった。
其の頃、私はパラオ民俗を知る為の一助にもと、民間俗信の神像や神祠などの模型を蒐集していた。それ故、知合いの島民の一人からマルクープ老人が比較的|故実《こじつ》にも通じ手先も器用であると聞伝えた私は、彼を使って見ようという気になったのである。最初私の前に連れて来られた老人は、瞼を時々つまみ上げて私の方を見ては私の質問に答えた。コロールばかりでなく、パラオ本島各地の信仰に就いても、一通り知っているものの様に思われた。其の日私は彼に悪魔除けのメレックと称する髯面《ひげづら》男の像を作って来るようにいいつけた。二三日して老人の持って来たものを見ると、仲々巧く出来ている。礼として五十銭紙幣を一枚渡すと、老人は又瞼をつまみ上げて紙幣を見、それから私の顔を見て、ニヤリとしながら軽く頭を下げた。
以後、私は度々魔除や祭祀用器具の類を彼に作らせた。小神祠《ウロガン》や舟型霊代《カエップ》や大蝙蝠《オリック》や猥褻《わいせつ》なディルンガイ像など
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