、或日ひょっこりマルクープ老人が訪ねて来た。私が帰って来たことを人から聞いて直ぐにやって来たのだと言った。ひどい窶《やつ》れようである。瞼が両眼に蔽いかぶさっているのは以前と変りないが、歯でも抜けたように頬が落ち込んで、背中の曲り様も前より甚だしく、それに何よりも驚かされたのは、声が非常にかすれて了って内証話のように聞えることであった。全体の感じが二年前より十も歳をとったような工合《ぐあい》である。以前の懐中時計の一件を忘れた訳ではなかったが、此の老い込んだ姿を前にしては、流石《さすが》にそれは言出せなかった。どうした、大変弱ってるようじゃないか、と言えば、病気が悪いと答え、実は其の事でお願があるのですと言った。老人は半年程前から酷く弱って来、咽喉《のど》が詰まるようで呼吸が苦しいので、パラオ病院に通っている。しかし、一向に治りそうもない。いっそパラオ病院をやめてレンゲさんの所へ行ったらどうだろうと思うのだが、と老人は言った。レンゲというのは独逸《ドイツ》人で長くオギワル村に住んでいる宣教師だが、中々教養のある男で、それに相当医薬の道にも通じていたらしい。時々島民の病人を診ては薬を与えている中に、其の評判がパラオ土民の間に高くなり、パラオ病院よりも良く治ると本気で信じている島民も少くなかった。マルクープ老人はパラオ病院に見切をつけて、此のレンゲ師の所へ診て貰いに行きたいのである。「しかし」と爺さんは言う。「パラオ病院は役所の病院だから、勝手に其処をやめてレンゲさんの所へ行ったら、院長さんにも怒られるし、警務の人にも怒られる。(まさかそんな事はあるまいと私は笑ったが、爺さんは頑固にそう信じていた)それで先生は(と私のことを言って)院長さんとコンパニイ(友達)だから、どうか院長さんの所へ行って巧く話して、私がレンゲさんの所へ行くことを許して貰って下さい」と。嗄《しわが》れた声でそれを言う態度が如何《いか》にも哀願的で、又瀕死の老人といった印象を与えたので、私も其の莫迦《ばか》げた依頼を引受けない訳に行かなかった。
 院長の所へ行って話して見ると、あれはもう喉頭癌とか喉頭結核とかで(どちらだか今は忘れた)到底助かる見込は無いのだから、レンゲの所へ行くなり何なり、もう本人の好きなようにさせた方がよかろうという。
 院長の許しがあった旨を翌日マルクープ老人に伝えてやると、ひど
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