南島譚
夫婦
中島敦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)本島《ほんとう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大|蜥蜴《とかげ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り
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 今でもパラオ本島《ほんとう》、殊にオギワルからガラルドへ掛けての島民で、ギラ・コシサンと其《そ》の妻エビルの話を知らない者は無い。

 ガクラオ部落のギラ・コシサンは大変に大人しい男だった。其の妻のエビルは頗《すこぶ》る多情で、部落の誰彼と何時《いつ》も浮名を流しては夫を悲しませていた。エビルは浮気者だったので、(斯《こ》ういう時に「けれども」という接続詞を使いたがるのは温帯人の論理に過ぎない)又、大の嫉妬家《やきもちや》でもあった。己の浮気に夫が当然浮気を以て酬いるであろうことを極度に恐れたのである。夫が路の真中を歩かずに左側を歩くと、其の左側の家々の娘共はエビルの疑を受けた。逆に右側を歩くと、右側の家々の女達に気があるのだろうと云ってギラ・コシサンは責められるのである。村の平和と、彼自身の魂の安静との為に、哀れなギラ・コシサンは狭い路の真中を、右にも左にも目をやらずに、唯真下の白い眩《まぶ》しい砂だけを見詰めながら、おずおずと歩かねばならなかった。
 パラオ地方では痴情にからむ女同志の喧嘩のことをヘルリスと名付ける。恋人を取られた(或いは取られたと考えた)女が、恋敵《こいがたき》の所へ押しかけて行って之《これ》に戦を挑むのである。戦は常に衆人環視の中で堂々と行われる。何人も其の仲裁を試みることは許されぬ。人々は楽しい興奮を以て見物するだけだ。此《こ》の戦は単に口舌にとどまらず、腕力を以て最後の勝敗を決する。但し、武器刃物類を用いないのが原則である。二人の黒い女が喚《わめ》き、叫び、突き、抓《つね》り、泣き、倒れる。衣類が――昔は余り衣類をまとう習慣が無かったが、それだけに其の僅かの被覆物は最低限の絶対必要物であった。――※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り破られることは言う迄もない。大抵の場合、衣類を悉《ことごと》く※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]り取られて竟《つい》に立って歩けなくなった方が負と判定されるようである。それ迄には勿論双方とも抓り傷引掻き傷の三十ヶ所や五十ヶ所は負うている。結局、相手を素裸にして打倒した女が凱歌をあげ、情事に於ける正しき者と認められ、今迄厳正中立を保って見物していた衆人から祝福を受ける。勝者は常に正しく、従って神々の祐助《ゆうじょ》祝福を受けるものだからである。
 さて、ギラ・コシサンの妻エビルは、此の恋喧嘩《ヘルリス》を、人妻といわず、娘といわず、女でない女を除いたあらゆる村の女に向って仕掛けた。そうして殆ど凡《すべ》ての場合、相手の女を抓り引掻き突飛ばした揚句《あげく》、丸裸に引剥いて了《しま》った。エビルは腕も脚も飽く迄太く、膂力《りょりょく》に秀でた女だったのである。エビルの多情は衆人周知の事実だったにも拘わらず、彼女の数々の情事は、結果から見て、正しいと言われなければならない。ヘルリスに於ける勝利という動かし難い輝かしい証拠があるのだから。斯《こ》うした実証を伴う偏見ほど牢乎《ろうこ》たるものはない。実際エビルは、彼女の現実の情事は常に正義であり、夫の想像された情事は常に不正であると固く信じていた。哀れなのはギラ・コシサンである。妻の口舌と腕力とによる日毎の責苦の外に、斯かる動かし難い証拠を前にして、彼は、本当に妻が正しく己が不正なのかも知れぬという良心的な懐疑に迄苦しまねばならなかった。偶然が彼に恵まなかったなら、彼は日々の重みのために押潰されて了ったかも知れぬ。
 その頃パラオの島々にはモゴルと呼ばれる制度があった。男子組合《ヘルデベヘル》の共同家屋《ア・バイ》に未婚の女が泊り込んで、炊事をする傍ら娼婦の様な仕事をするのである。其の女は必ず他部落から来る。自発的に来る場合もあり、敗戦の結果強制的に出させられることもある。
 ギラ・コシサンの住んでいるガクラオの共同家屋《ア・バイ》に偶々《たまたま》グレパン部落の女がモゴルに来た。名をリメイといって非常な美人である。
 ギラ・コシサンが初めて此の女をア・バイの裏の炊事場で見た時、彼は茫然として暫く佇立《ちょりつ》した。その女の黒檀彫《こくたんぼり》の古い神像のような美に打たれたばかりではない。何か運命的な予感が――此の女によってのみ自分は現在の女房の圧制から免れられるかも知れぬという・哀れにも甚だ打算的な予感がしたのである。彼の此の予感は、彼を見返した女の熱情的な凝視(リメイは大変長い睫《まつげ》と大きな黒い目とをもっていた)によって更に裏付けられた。其の日以来、ギラ・コシサンとリメイとは恋仲になったのである。
 モゴルの女は一人で男子組合の会員の凡てに接する場合もあれば、或る特別の少数、或いは一人だけに限る場合もある。それは女の自由に任せられるのであって、組合の方で強制する訳には行かない。リメイは既婚者ギラ・コシサン一人だけを選んだ。男自慢の青年共の流眄《ながしめ》も口説も、その他の微妙な挑発的手段も、彼女の心を惹くことが出来ない。
 ギラ・コシサンにとって、今や世界は一変した。女房の暗雲のような重圧にも拘わらず、外には依然陽が輝き青空には白雲が美しく流れ樹々には小鳥が囀《さえず》っていることを、彼は十年この方始めて発見したように思った。
 エビルの慧眼《けいがん》が夫の顔色の変化を認めない訳がない。彼女は直ちに其の原因を突きとめた。一夜、徹底的に夫を糺弾《きゅうだん》した後、翌朝、男子組合のア・バイに向って出掛けた。夫を奪おうとした憎むべきリメイに断乎としてヘルリスを挑むべく、海盤車《ひとで》に襲いかかる大蛸《おおだこ》の様な猛烈さで、彼女はア・バイの中に闖入《ちんにゅう》した。
 所が、海盤車《ひとで》と思った相手は、意外なことに痺《しび》れ※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《えい》であった。一掴みと躍りかかった大蛸は忽《たちま》ち手足を烈しく刺されて退却せねばならなかった。骨髄に徹する憎悪を右腕一つにこめて繰出したエビルの突きは二倍の力で撥ね返され、敵の横腹を抓《つね》ろうとする彼女の手首は造作なく捩《ね》じ上げられた。口惜しさに半ば泣きながら渾身の力を以て体当りを試みたが、巧みに体を躱《かわ》されて前にのめり、柱にいやという程額をぶっつけた。目が眩んで倒れる所へ相手が襲いかかって、瞬く間にエビルの着物は悉く※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り去られた。
 エビルが負けた。
 過去十年間無敵を誇った女丈夫エビルが最も大事な恋喧嘩《ヘルリス》に惨敗を喫したのである。ア・バイの柱々に彫られた奇怪な神像の顔も事の意外に目を瞠《みは》り、天井の闇にぶら下って惰眠を貪っていた蝙蝠《こうもり》共も此の椿事《ちんじ》に仰天して表へ飛び出した。ア・バイの壁の隙間から一部始終を覗いていた夫のギラ・コシサンは、半ば驚き半ば欣《よろこ》び、大体に於て惶《おそ》れ惑うた。リメイによって救われるかも知れぬとの予感が実現しようとしているのは有難かったが、何しろ無敵のエビルが敗れるなどという大変事を前にして、一体この事柄をどう考えていいのか、又、此の事件が己が身にどう影響して来るのか、大いに惶れ惑わざるを得なかったのである。
 さて、エビルはかすり傷だらけの身体に一糸もまとわず、髪の毛を剃られたサムソンの如くに悄然と、前を抑えながら家に戻った。既に習慣となっていた卑屈さのせいで、ギラ・コシサンはリメイと共にア・バイに留まって勝利の歓喜を頒《わか》つことはせず、意気地なくも敗けた女房のあとについてノコノコと帰って来た。
 始めて敗北の惨めさを知った英雄は二日二晩口惜し泣きに泣き続けた。三日目に漸《ようや》く泣声がやむと、今度は猛烈な罵声が之に代った。口惜し涙の下に二昼夜の間沈潜していた嫉妬と憤怒とが、今や、すさまじい咆哮《ほうこう》となって弱き夫の上に炸裂したのである。
 椰子の葉を叩くスコールの如く、麺麭《パン》の樹に鳴く蝉時雨《せみしぐれ》の如く、環礁の外に荒れ狂う怒濤の如く、ありとあらゆる罵詈雑言《ばりぞうごん》が夫の上に降り注いだ。火花のように、雷光のように、毒のある花粉のように、嶮《けわ》しい悪意の微粒子が家中に散乱した。貞淑な妻を裏切った不信な夫は奸悪な海蛇だ。海鼠《なまこ》の腹から生れた怪物だ。腐木に湧く毒茸。正覚坊の排泄物。黴《かび》の中で一番下劣な奴。下痢をした猿。羽の抜けた禿翡翠《はげかわせみ》。他処からモゴルに来たあの女ときたら、淫乱な牝豚だ。母を知らない家無し女だ。歯に毒をもったヤウス魚。兇悪な大|蜥蜴《とかげ》。海の底の吸血魔。残忍なタマカイ魚。そして、自分は、その猛魚に足を喰切られた哀れな優しい牝蛸だ。…………
 余りの烈しさ騒々しさに、夫は耳が聾したように茫然としていた。一時は、自分がすっかり無感覚になったような気がした。対策を考える暇などは無いのである。怒鳴り疲れた妻が一寸《ちょっと》息を切って椰子水に咽喉を潤おす段になって、やっと、今迄盛んに空中に撒き散らされた罵詈が綿《カボック》の木の棘の様にチクチクと彼の皮膚を刺すのを感じた。
 習慣は我々の王者である。この様な目に会いながら、妻の絶対専制に慣れたギラ・コシサンはまだア・バイのリメイの許に逃げ出す決心がつかないでいた。彼は唯哀願して只管《ひたすら》に宥恕《ゆうじょ》を請うばかりである。
 狂乱と暴風の一昼夜の後、漸く和解が成立した。但し、ギラ・コシサンがキッパリとあのモゴルの女と切れた上で、自ら遥々カヤンガル島に渡り、其の地の名産たるタマナ樹で豪勢な舞踊台《オイラオル》を作らせ、それを持帰った上で、其の披露|旁々《かたがた》二人の夫婦固めの式を行うという条件つきである。パラオ人は珠貨《ウドウド》と饗宴との交換によって結婚式を済ませてから数年の中に又改めて「|夫婦固めの式《ムル》」をすることがある。勿論|之《これ》には多額の費用が要《い》るので、金持だけが之をするのだが、大して裕《ゆた》かでないギラ・コシサン夫婦はまだ之をしていなかった。今此の上に尚舞踊台迄も作るということは並々ならぬ経済上の無理を伴うものだったが、妻の機嫌を取結ぶためには何とも仕方が無かった。彼はなけなしの珠貨《ウドウド》を残らず携えてカヤンガル島に渡った。
 恰好なタマナ材は直ぐに切出されたが、舞踊台の製作には大変暇がかかった。何しろ脚が一つ出来たといっては皆を集めて一踊り祝の踊をし、表面が巧く削れたといっては又一踊りするので、仲々はか[#「はか」に傍点]が行かない。初め細かった月が一旦円くなり、それが又細くなる迄かかって了った。其の間カヤンガルの浜辺の小舎に起臥《おきふし》しながら、ギラ・コシサンは時々懐かしいリメイのことを心細く思い浮べた。あの恋喧嘩《ヘルリス》以来自分があの女に会いに行けない苦しさを、果してリメイは解って呉《く》れているだろうかと。
 一月の後、ギラ・コシサンは莫大な珠貨《ウドウド》を職人達に支払い、新しい見事な舞踊台を小舟に積んでガクラオに帰った。
 彼がガクラオの浜に着いた時は夜であった。浜辺にあかあかと篝火《かがりび》が燃え、人々の手を拍ち唱いはしゃぐ声が聞える。村人が集まって豊年祈りの踊をしているのであろう。
 ギラ・コシサンは踊の場所から大分離れた所に舟を繋ぎ、舞踊台は舟に残したまま、そっと上陸した。静かに踊の群に近付き椰子樹の陰から覗いて見たが、踊る人々の中にも見物の中にも妻のエビルの姿は見えない。彼は心重く己が家へと歩を運んだ。
 ひょろ高い檳榔樹《びんろうじゅ》木立の下の敷石路をギラ・コシサンは、忍び足で灯の
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