コシサンはまだア・バイのリメイの許に逃げ出す決心がつかないでいた。彼は唯哀願して只管《ひたすら》に宥恕《ゆうじょ》を請うばかりである。
 狂乱と暴風の一昼夜の後、漸く和解が成立した。但し、ギラ・コシサンがキッパリとあのモゴルの女と切れた上で、自ら遥々カヤンガル島に渡り、其の地の名産たるタマナ樹で豪勢な舞踊台《オイラオル》を作らせ、それを持帰った上で、其の披露|旁々《かたがた》二人の夫婦固めの式を行うという条件つきである。パラオ人は珠貨《ウドウド》と饗宴との交換によって結婚式を済ませてから数年の中に又改めて「|夫婦固めの式《ムル》」をすることがある。勿論|之《これ》には多額の費用が要《い》るので、金持だけが之をするのだが、大して裕《ゆた》かでないギラ・コシサン夫婦はまだ之をしていなかった。今此の上に尚舞踊台迄も作るということは並々ならぬ経済上の無理を伴うものだったが、妻の機嫌を取結ぶためには何とも仕方が無かった。彼はなけなしの珠貨《ウドウド》を残らず携えてカヤンガル島に渡った。
 恰好なタマナ材は直ぐに切出されたが、舞踊台の製作には大変暇がかかった。何しろ脚が一つ出来たといっては皆を集めて一踊り祝の踊をし、表面が巧く削れたといっては又一踊りするので、仲々はか[#「はか」に傍点]が行かない。初め細かった月が一旦円くなり、それが又細くなる迄かかって了った。其の間カヤンガルの浜辺の小舎に起臥《おきふし》しながら、ギラ・コシサンは時々懐かしいリメイのことを心細く思い浮べた。あの恋喧嘩《ヘルリス》以来自分があの女に会いに行けない苦しさを、果してリメイは解って呉《く》れているだろうかと。
 一月の後、ギラ・コシサンは莫大な珠貨《ウドウド》を職人達に支払い、新しい見事な舞踊台を小舟に積んでガクラオに帰った。
 彼がガクラオの浜に着いた時は夜であった。浜辺にあかあかと篝火《かがりび》が燃え、人々の手を拍ち唱いはしゃぐ声が聞える。村人が集まって豊年祈りの踊をしているのであろう。
 ギラ・コシサンは踊の場所から大分離れた所に舟を繋ぎ、舞踊台は舟に残したまま、そっと上陸した。静かに踊の群に近付き椰子樹の陰から覗いて見たが、踊る人々の中にも見物の中にも妻のエビルの姿は見えない。彼は心重く己が家へと歩を運んだ。
 ひょろ高い檳榔樹《びんろうじゅ》木立の下の敷石路をギラ・コシサンは、忍び足で灯の無い家に近附いた。妻に近附くのが、唯何となく怖かったのである。
 猫のように闇中を見通す未開人の眼で彼がそうっと家の中を窺った時、彼は其処《そこ》に一組の男女の姿を見付けた。男は誰か判らないが、女がエビルであることだけは間違いない。瞬間、ギラ・コシサンは、ほっと、助かった! という気がした。目前に見た事の意味よりも、いきなり妻に怒鳴りつけられる事から免れたことの方が彼にとって重大だったのである。次に彼は何か少し悲しい気がした。嫉妬でも憤怒でもない。大嫉妬家のエビルに向って嫉妬するなどとは到底考えられぬことだし、怒りなどという感情はいじけた此の男の中から疾《と》うに磨滅し去っていて今は少しの痕跡さえ見られない。彼は唯何かほんの少し寂しい気がしただけである。彼は又そっと足音を忍ばせて家から遠ざかった。
 何時かギラ・コシサンは男子組合《ヘルデベヘル》のア・バイの前に来ていた。中から微かに明りの洩れるのを見れば、誰かがいるに違いない。はいって見ると、ガランとした内に椰子殻の灯が一つともり、其の灯に背を向けて一人の女が寝ている。紛《まご》う方なきリメイだ。ギラ・コシサンは胸を躍らせて近寄った。向うむきに寝ている女の肩に手を掛けて揺すぶったが、女は此方を向かない。眠っているのではない様子である。もう一度揺すると、女が向うをむいた儘言った。「私はギラ・コシサンの|思い者《メゲレゲル》だから、誰も触ってはいけない!」ギラ・コシサンはとび上った。欣びに顫《ふる》える声で叫んだ。「俺だ。俺だ。ギラ・コシサンだ。」驚いて振向いたリメイの目に大粒の涙が見る見る湧いた。
 大分長い間経って二人が我に返った時、リメイは(エビルを負かす程の強い女だったにも拘わらず)さめざめと泣きながら、彼が来なくなってからの久しい間に、如何に操を立てるのが苦しかったかを、かき口説いた。もう二三日も立てば或いは操を立て通し切れなかったかも知れないとも言った。
 妻があれ程淫奔で、娼婦が斯《か》くも貞淑だという事実は、卑屈なギラ・コシサンにも竟《つい》に妻の暴虐に対する叛逆を思い立たせた。以前の壮烈な恋喧嘩《ヘルリス》の結果を見れば、優しく強いリメイがついている限り、幾らエビルが攻寄せて来ても恐れることはない。今迄之に思い到らず、愚図愚図とあの猛獣の窟から逃出さなかったとは、何という愚かなことだったか!
「逃げよ
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