。彼の此の予感は、彼を見返した女の熱情的な凝視(リメイは大変長い睫《まつげ》と大きな黒い目とをもっていた)によって更に裏付けられた。其の日以来、ギラ・コシサンとリメイとは恋仲になったのである。
モゴルの女は一人で男子組合の会員の凡てに接する場合もあれば、或る特別の少数、或いは一人だけに限る場合もある。それは女の自由に任せられるのであって、組合の方で強制する訳には行かない。リメイは既婚者ギラ・コシサン一人だけを選んだ。男自慢の青年共の流眄《ながしめ》も口説も、その他の微妙な挑発的手段も、彼女の心を惹くことが出来ない。
ギラ・コシサンにとって、今や世界は一変した。女房の暗雲のような重圧にも拘わらず、外には依然陽が輝き青空には白雲が美しく流れ樹々には小鳥が囀《さえず》っていることを、彼は十年この方始めて発見したように思った。
エビルの慧眼《けいがん》が夫の顔色の変化を認めない訳がない。彼女は直ちに其の原因を突きとめた。一夜、徹底的に夫を糺弾《きゅうだん》した後、翌朝、男子組合のア・バイに向って出掛けた。夫を奪おうとした憎むべきリメイに断乎としてヘルリスを挑むべく、海盤車《ひとで》に襲いかかる大蛸《おおだこ》の様な猛烈さで、彼女はア・バイの中に闖入《ちんにゅう》した。
所が、海盤車《ひとで》と思った相手は、意外なことに痺《しび》れ※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《えい》であった。一掴みと躍りかかった大蛸は忽《たちま》ち手足を烈しく刺されて退却せねばならなかった。骨髄に徹する憎悪を右腕一つにこめて繰出したエビルの突きは二倍の力で撥ね返され、敵の横腹を抓《つね》ろうとする彼女の手首は造作なく捩《ね》じ上げられた。口惜しさに半ば泣きながら渾身の力を以て体当りを試みたが、巧みに体を躱《かわ》されて前にのめり、柱にいやという程額をぶっつけた。目が眩んで倒れる所へ相手が襲いかかって、瞬く間にエビルの着物は悉く※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り去られた。
エビルが負けた。
過去十年間無敵を誇った女丈夫エビルが最も大事な恋喧嘩《ヘルリス》に惨敗を喫したのである。ア・バイの柱々に彫られた奇怪な神像の顔も事の意外に目を瞠《みは》り、天井の闇にぶら下って惰眠を貪っていた蝙蝠《こうもり》共も此の椿事《ちんじ》に仰天して表へ飛び出した。ア・バイの壁の隙間から一部始終を覗いていた夫のギラ・コシサンは、半ば驚き半ば欣《よろこ》び、大体に於て惶《おそ》れ惑うた。リメイによって救われるかも知れぬとの予感が実現しようとしているのは有難かったが、何しろ無敵のエビルが敗れるなどという大変事を前にして、一体この事柄をどう考えていいのか、又、此の事件が己が身にどう影響して来るのか、大いに惶れ惑わざるを得なかったのである。
さて、エビルはかすり傷だらけの身体に一糸もまとわず、髪の毛を剃られたサムソンの如くに悄然と、前を抑えながら家に戻った。既に習慣となっていた卑屈さのせいで、ギラ・コシサンはリメイと共にア・バイに留まって勝利の歓喜を頒《わか》つことはせず、意気地なくも敗けた女房のあとについてノコノコと帰って来た。
始めて敗北の惨めさを知った英雄は二日二晩口惜し泣きに泣き続けた。三日目に漸《ようや》く泣声がやむと、今度は猛烈な罵声が之に代った。口惜し涙の下に二昼夜の間沈潜していた嫉妬と憤怒とが、今や、すさまじい咆哮《ほうこう》となって弱き夫の上に炸裂したのである。
椰子の葉を叩くスコールの如く、麺麭《パン》の樹に鳴く蝉時雨《せみしぐれ》の如く、環礁の外に荒れ狂う怒濤の如く、ありとあらゆる罵詈雑言《ばりぞうごん》が夫の上に降り注いだ。火花のように、雷光のように、毒のある花粉のように、嶮《けわ》しい悪意の微粒子が家中に散乱した。貞淑な妻を裏切った不信な夫は奸悪な海蛇だ。海鼠《なまこ》の腹から生れた怪物だ。腐木に湧く毒茸。正覚坊の排泄物。黴《かび》の中で一番下劣な奴。下痢をした猿。羽の抜けた禿翡翠《はげかわせみ》。他処からモゴルに来たあの女ときたら、淫乱な牝豚だ。母を知らない家無し女だ。歯に毒をもったヤウス魚。兇悪な大|蜥蜴《とかげ》。海の底の吸血魔。残忍なタマカイ魚。そして、自分は、その猛魚に足を喰切られた哀れな優しい牝蛸だ。…………
余りの烈しさ騒々しさに、夫は耳が聾したように茫然としていた。一時は、自分がすっかり無感覚になったような気がした。対策を考える暇などは無いのである。怒鳴り疲れた妻が一寸《ちょっと》息を切って椰子水に咽喉を潤おす段になって、やっと、今迄盛んに空中に撒き散らされた罵詈が綿《カボック》の木の棘の様にチクチクと彼の皮膚を刺すのを感じた。
習慣は我々の王者である。この様な目に会いながら、妻の絶対専制に慣れたギラ・
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