ら一部始終を覗いていた夫のギラ・コシサンは、半ば驚き半ば欣《よろこ》び、大体に於て惶《おそ》れ惑うた。リメイによって救われるかも知れぬとの予感が実現しようとしているのは有難かったが、何しろ無敵のエビルが敗れるなどという大変事を前にして、一体この事柄をどう考えていいのか、又、此の事件が己が身にどう影響して来るのか、大いに惶れ惑わざるを得なかったのである。
さて、エビルはかすり傷だらけの身体に一糸もまとわず、髪の毛を剃られたサムソンの如くに悄然と、前を抑えながら家に戻った。既に習慣となっていた卑屈さのせいで、ギラ・コシサンはリメイと共にア・バイに留まって勝利の歓喜を頒《わか》つことはせず、意気地なくも敗けた女房のあとについてノコノコと帰って来た。
始めて敗北の惨めさを知った英雄は二日二晩口惜し泣きに泣き続けた。三日目に漸《ようや》く泣声がやむと、今度は猛烈な罵声が之に代った。口惜し涙の下に二昼夜の間沈潜していた嫉妬と憤怒とが、今や、すさまじい咆哮《ほうこう》となって弱き夫の上に炸裂したのである。
椰子の葉を叩くスコールの如く、麺麭《パン》の樹に鳴く蝉時雨《せみしぐれ》の如く、環礁の外に荒れ狂う怒濤の如く、ありとあらゆる罵詈雑言《ばりぞうごん》が夫の上に降り注いだ。火花のように、雷光のように、毒のある花粉のように、嶮《けわ》しい悪意の微粒子が家中に散乱した。貞淑な妻を裏切った不信な夫は奸悪な海蛇だ。海鼠《なまこ》の腹から生れた怪物だ。腐木に湧く毒茸。正覚坊の排泄物。黴《かび》の中で一番下劣な奴。下痢をした猿。羽の抜けた禿翡翠《はげかわせみ》。他処からモゴルに来たあの女ときたら、淫乱な牝豚だ。母を知らない家無し女だ。歯に毒をもったヤウス魚。兇悪な大|蜥蜴《とかげ》。海の底の吸血魔。残忍なタマカイ魚。そして、自分は、その猛魚に足を喰切られた哀れな優しい牝蛸だ。…………
余りの烈しさ騒々しさに、夫は耳が聾したように茫然としていた。一時は、自分がすっかり無感覚になったような気がした。対策を考える暇などは無いのである。怒鳴り疲れた妻が一寸《ちょっと》息を切って椰子水に咽喉を潤おす段になって、やっと、今迄盛んに空中に撒き散らされた罵詈が綿《カボック》の木の棘の様にチクチクと彼の皮膚を刺すのを感じた。
習慣は我々の王者である。この様な目に会いながら、妻の絶対専制に慣れたギラ・
前へ
次へ
全9ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング