、章魚《たこ》の木の葉で編んだ新しい呉蓙《ござ》の敷き心地もヒヤヒヤと冷たくて誠に宜しい。しかし、朝になると、依然として汚ない小舎の中で目を醒ました。一日中烈しい労働に追い使われ、食物としてはクカオ芋の尻尾と魚のあら[#「あら」に傍点]としか与えられないことも今迄通りである。
 次の晩も、次の次の晩も、それから毎晩続いて、哀れな下僕は夢の中で長老になった。彼の長老ぶりは次第に板について来た。御馳走を見ても、もう初めの頃のように浅間しくガツガツするようなことは無い。妻との間に争いをしたことも度重なった。妻以外の女に手出しが出来ることを知ってからも久しくなる。島民等を頤使《いし》して、舟庫を作らせたり祭祀をとり行ったりもした。司祭《コロン》に導かれて神前に進む彼の神々しさに、島民共は斉《ひと》しく古英雄の再来ではないかと驚嘆した。彼に仕える下僕の一人に、昼間の彼の主人たる第一長老と覚しき男がいる。此の男の彼を怖れる様といったら、可笑《おか》しい位である。それが面白さに、彼は、第一長老に似た此の下僕に一番酷い労働をいいつける。漁もさせれば、椰子蜜採りもさせる。我が乗る舟の途に当るからとて、此の下僕を独木舟から鱶《ふか》の泳ぐ水中に跳び込ませたこともある。哀れな下僕の慌てまどい畏《おそ》れる様が、彼にいたく満足を与える。
 昼間の劇《はげ》しい労働も苛酷な待遇も最早彼に嘆声を洩らさせることはない。賢い諦めの言葉を自らに言って聞かせる必要もなくなった。夜の楽しさを思えば、昼間の辛労の如き、ものの数ではなかったからである。一日の辛い仕事に疲れ果てても、彼は世にも嬉しげな微笑を浮べつつ、栄燿栄華《えいようえいが》の夢を見るために、柱の折れかかった汚ない寝床へと急ぐのであった。そういえば、夢の中で摂《と》る美食の所為《せい》であろうか、彼は近頃めっきり肥《ふと》ってきた。顔色もすっかり良くなり、空咳も何時かしなくなった。見るからに生き生きと若返ったのである。

 丁度哀れな醜い独身者の下僕が斯《こ》うした夢を見始めた頃から、一方、彼の主人たる富める大長老も亦《また》奇態な夢を見るようになった。夢の中で、貴き第一長老は惨めな貧しい下僕になるのである。漁から椰子蜜採りから椰子縄作りから麺麭《パン》の実取りや独木舟造りに至る迄、ありとあらゆる労働が彼に課せられる。こう仕事が多くては、無数に手の生えている蜈蚣《むかで》でも遣《や》り切れまいと思われる程だ。其等《それら》の用をいいつける主人というのが、昼間は己の最も卑しい下僕である筈の男である。之が又ひどく意地悪で、次から次へと無理をいう。大蛸には吸い付かれ、車渠貝には足を挟まれ、鱶には足指を切られる。食事はといえば、芋の尻尾と魚のあら[#「あら」に傍点]ばかり。毎朝、彼が母屋《おもや》の中央の贅沢な呉蓙《ござ》の上で醒を覚ます時は、身体は終夜の労働にぐったりと疲れ、節々《ふしぶし》がズキズキと痛むのである。毎晩斯ういう夢を見ている中に、第一長老の身体から次第に脂気がうせ、出張った腹が段々しぼんで来た。実際芋の尻尾と魚のあら[#「あら」に傍点]ばかりでは、誰だって痩せる外はない。月が三回|盈欠《みちかけ》する中に長老はみじめに衰えて、いやな空咳までするようになった。
 竟《つい》に、長老が腹を立てて下僕を呼びつけた。夢の中で己を虐《しいた》げる憎むべき男を思いきり罰してやろうと決心したのである。
 所が、目の前に現れた下僕は、嘗《かつ》ての痩せ衰えた・空咳をする・おどおどと畏れ惑《まど》う・哀れな小心者ではなかった。何時の間にかデップリと肥り、顔色も生き生きとして元気一杯に見える。それに、其の態度が如何《いか》にも自信に充ちていて、言葉こそ叮寧《ていねい》ながら、どう見ても此方の頤使に甘んずるものとは到底思われない。悠揚たる其の微笑を見ただけで、長老は相手の優勢感にすっかり圧倒されて了《しま》った。夢の中の虐待者に対する恐怖感迄が甦って来て彼を脅した。夢の世界と昼間の世界と、何《いず》れがより[#「より」に傍点]現実なのかという疑が、チラと彼の頭を掠《かす》めた。痩せ衰えた自分の如き者が今更咳をしながら此の堂々たる男を叱り付けるなどとは、思いも寄らぬ。
 長老は、自分でも予期しなかった程の慇懃《いんぎん》な言葉で、下男に向い、彼が健康を回復した次第を尋ねた。下男は詳しく夢のことを語った。如何に彼が夜毎美食に※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]《あ》き足るか。如何に婢僕《ひぼく》にかしずかれて快い安逸を娯《たの》しむか。如何に数多の女共によって天国の楽しみを味わうか。
 下僕の話を聞き終って、長老は大いに驚いた。下男の夢と己《おのれ》の夢との斯《か》くも驚くべき一致は何に基づくのか。夢の世界の栄養
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