が醒めたる世界の肉体に及ぼす影響は、又斯くの如く甚だしいのか。夢の世界が昼の世界と同じく(或いはそれ以上に)現実であることは、最早疑う余地が無い。彼は、恥を忍んで、下男に己が毎夜の夢のことを告げた。如何に自分が夜毎劇しい労働を強いられるか。如何に芋の尻尾と魚のあら[#「あら」に傍点]とだけで我慢せねばならぬか。
 下男はそれを聞いても一向に驚かぬ。さもあろうと云った顔付で、疾《とっ》くに知っていた事を聞くように、満足げな微笑を湛えながら鷹揚《おうよう》に頷《うなず》く。其の顔は、誠に、干潟《ひがた》の泥の中に満腹して眠る海鰻《カシボクー》の如く、至上の幸福に輝いている。この男は、夢が昼の世界よりも一層現実であることを既に確信しているのであろう。アアと心からの溜息を吐《つ》きながら、哀れな富める主人は貧しく賢い下僕の顔を嫉《ねた》ましげに眺めた。
 
  ×  ×  ×

 右は、今は世に無きオルワンガル島の昔話である。オルワンガル島は、今から八十年ばかり前の或日、突然、住民|諸共《もろとも》海底に陥没して了った。爾来《じらい》、この様な仕合わせな夢を見る男はパラオ中にいないということである。



底本:「中島敦全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年3月24日第1刷発行
入力:ちょも
校正:田中久絵
1999年8月6日公開
2004年2月4日修正
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