然なことだ。夫子ほど完全に近い人を自分は見たことがないし、また将来もこういう人はそう現れるものではなかろうから。ただ自分の言いたいのは、その夫子にしてなおかつかかる微小ではあるが・警戒すべき点を残すものだという事だ。顔回のような夫子と似通った肌合《はだあい》の男にとっては、自分の感じるような不満は少しも感じられないに違いない。夫子がしばしば顔回を讃《ほ》められるのも、結局はこの肌合のせいではないのか。…………
 青二才《あおにさい》の分際で師の批評などおこがましい[#「おこがましい」に傍点]と腹が立ち、また、これを言わせているのは畢竟《ひっきょう》顔淵への嫉妬だとは知りながら、それでも子路はこの言葉の中に莫迦《ばか》にしきれないものを感じた。肌合の相違ということについては、確かに子路も思い当ることがあったからである。
 おれ達には漠然《ばくぜん》としか気付かれないものをハッキリ形に表す・妙《みょう》な才能が、この生意気な若僧《わかぞう》にはあるらしいと、子路は感心と軽蔑とを同時に感じる。

 子貢が孔子に奇妙な質問をしたことがある。「死者は知ることありや? 将《は》た知ることなきや?」死後の知覚の有無、あるいは霊魂《れいこん》の滅不滅についての疑問である。孔子がまた妙な返辞をした。「死者知るありと言わんとすれば、まさに孝子順孫、生を妨《さまた》げてもって死を送らんとすることを恐る。死者知るなしと言わんとすれば、まさに不孝の子その親を棄《す》てて葬《ほうむ》らざらんとすることを恐る。」およそ見当違いの返辞なので子貢は甚《はなは》だ不服だった。もちろん、子貢の質問の意味は良く判《わか》っているが、あくまで現実主義者、日常生活中心主義者たる孔子は、この優れた弟子の関心の方向を換《か》えようとしたのである。
 子貢は不満だったので、子路にこの話をした。子路は別にそんな問題に興味は無かったが、死そのものよりも師の死生観を知りたい気がちょっとしたので、ある時死について訊《たず》ねてみた。
「いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らん。」これが孔子の答であった。
 全くだ! と子路はすっかり感心した。しかし、子貢はまたしても鮮《あざ》やかに肩透《かたすか》しを喰ったような気がした。それはそうです。しかし私の言っているのはそんな事ではない。明らかにそう言っている子貢の表情である。

     九

 衛《えい》の霊公は極めて意志の弱い君主である。賢と不才とを識別し得ないほど愚かではないのだが、結局は苦い諫言《かんげん》よりも甘い諂諛《てんゆ》に欣《よろこ》ばされてしまう。衛の国政を左右するものはその後宮であった。
 夫人|南子《なんし》はつとに淫奔《いんぽん》の噂が高い。まだ宋《そう》の公女だった頃異母兄の朝《ちょう》という有名な美男と通じていたが、衛侯の夫人となってからもなお宋朝を衛に呼び大夫に任じてこれと醜《しゅう》関係を続けている。すこぶる才走った女で、政治|向《むき》の事にまで容喙《ようかい》するが、霊公はこの夫人の言葉なら頷《うなず》かぬことはない。霊公に聴《き》かれようとする者はまず南子に取入るのが例であった。
 孔子が魯から衛に入った時、召を受けて霊公には謁《えっ》したが、夫人の所へは別に挨拶《あいさつ》に出なかった。南子が冠《かんむり》を曲げた。早速《さっそく》人を遣《つか》わして孔子に言わしめる。四方の君子、寡君《かくん》と兄弟たらんと欲する者は、必ず寡小君《かしょうくん》(夫人)を見る。寡小君見んことを願えり云々。
 孔子もやむをえず挨拶に出た。南子は※[#「糸+希」、第3水準1−90−5]帷《ちい》(薄《うす》い葛布《くずぬの》の垂れぎぬ)の後に在って孔子を引見する。孔子の北面稽首《ほくめんけいしゅ》の礼に対し、南子が再拝して応《こた》えると、夫人の身に着けた環佩《かんぱい》が※[#「王へん+樛のつくり」、第3水準1−88−22]然《きゅうぜん》として鳴ったとある。
 孔子が公宮から帰って来ると、子路が露骨《ろこつ》に不愉快な顔をしていた。彼は、孔子が南子|風情《ふぜい》の要求などは黙殺《もくさつ》することを望んでいたのである。まさか孔子が妖婦《ようふ》にたぶらかされるとは思いはしない。しかし、絶対|清浄《せいじょう》であるはずの夫子が汚らわしい淫女に頭を下げたというだけで既に面白くない。美玉を愛蔵する者がその珠《たま》の表面《おもて》に不浄なるものの影《かげ》の映るのさえ避けたい類《たぐい》なのであろう。孔子はまた、子路の中で相当|敏腕《びんわん》な実際家と隣《とな》り合って住んでいる大きな子供[#「大きな子供」に傍点]が、いつまでたっても一向老成しそうもないのを見て、可笑《おか》しくもあり、困りもするのである。

 一日、霊公の所から孔子へ使が来た。車で一緒《いっしょ》に都を一巡《いちじゅん》しながら色々話を承《うけたまわ》ろうと云う。孔子は欣んで服を改め直ちに出掛けた。
 この丈《たけ》の高いぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]な爺《じい》さんを、霊公が無闇《むやみ》に賢者として尊敬するのが、南子には面白くない。自分を出し抜いて、二人同車して都を巡《めぐ》るなどとはもっての外である。
 孔子が公に謁し、さて表に出て共に車に乗ろうとすると、そこには既に盛装《せいそう》を凝《こ》らした南子夫人が乗込んでいた。孔子の席が無い。南子は意地の悪い微笑を含《ふく》んで霊公を見る。孔子もさすがに不愉快になり、冷やかに公の様子を窺《うかが》う。霊公は面目無げに目を俯《ふ》せ、しかし南子には何事も言えない。黙《だま》って孔子のために次の車を指《ゆび》さす。
 二乗の車が衛の都を行く。前なる四輪の豪奢《ごうしゃ》な馬車には、霊公と並《なら》んで嬋妍《せんけん》たる南子夫人の姿が牡丹《ぼたん》の花のように輝《かがや》く。後《うしろ》の見すぼらしい二輪の牛車には、寂《さび》しげな孔子の顔が端然《たんぜん》と正面を向いている。沿道の民衆の間にはさすがに秘《ひそ》やかな嘆声《たんせい》と顰蹙《ひんしゅく》とが起る。
 群集の間に交って子路もこの様子を見た。公からの使を受けた時の夫子の欣びを目にしているだけに、腸《はらわた》の煮《に》え返る思いがするのだ。何事か嬌声《きょうせい》を弄《ろう》しながら南子が目の前を進んで行く。思わず嚇《かっ》となって、彼は拳を固め人々を押分けて飛出そうとする。背後《うしろ》から引留める者がある。振切《ふりき》ろうと眼を瞋《いか》らせて後を向く。子若《しじゃく》と子正《しせい》の二人である。必死に子路の袖《そで》を控《ひか》えている二人の眼に、涙の宿っているのを子路は見た。子路は、ようやく振上げた拳を下す。

 翌日、孔子等の一行は衛を去った。「我いまだ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ざるなり。」というのが、その時の孔子の嘆声である。

     十

 葉公《しょうこう》子高《しこう》は竜《りゅう》を好むこと甚だしい。居室にも竜を雕《ほ》り繍帳《しゅうちょう》にも竜を画き、日常竜の中に起臥《きが》していた。これを聞いたほん[#「ほん」に傍点]物《もの》の天竜が大きに欣んで一日葉公の家に降《くだ》り己《おのれ》の愛好者を覗《のぞ》き見た。頭は※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]《まど》に窺《うかが》い尾《お》は堂に※[#「てへん+施のつくり」、第3水準1−84−74]《ひ》くという素晴らしい大きさである。葉公はこれを見るや怖《おそ》れわなないて逃《に》げ走った。その魂魄《こんぱく》を失い五色主無《ごしきしゅな》し、という意気地無さであった。
 諸侯は孔子の賢の名を好んで、その実を欣ばぬ。いずれも葉公の竜における類である。実際の孔子は余りに彼等には大き過ぎるもののように見えた。孔子を国賓《こくひん》として遇《ぐう》しようという国はある。孔子の弟子の幾人《いくにん》かを用いた国もある。が、孔子の政策を実行しようとする国はどこにも無い。匡《きょう》では暴民の凌辱《りょうじょく》を受けようとし、宋では姦臣《かんしん》の迫害《はくがい》に遭《あ》い、蒲《ほ》ではまた兇漢《きょうかん》の襲撃《しゅうげき》を受ける。諸侯の敬遠と御用《ごよう》学者の嫉視と政治家連の排斥《はいせき》とが、孔子を待ち受けていたもののすべてである。
 それでもなお、講誦を止めず切磋《せっさ》を怠《おこた》らず、孔子と弟子達とは倦《う》まずに国々への旅を続けた。「鳥よく木を択《えら》ぶ。木|豈《あ》に鳥を択ばんや。」などと至って気位は高いが、決して世を拗《す》ねたのではなく、あくまで用いられんことを求めている。そして、己等《おのれら》の用いられようとするのは己がために非ずして天下のため、道のためなのだと本気で[#「本気で」に傍点]――全く呆《あき》れたことに本気で[#「本気で」に傍点]そう考えている。乏しくとも常に明るく、苦しくとも望を捨てない。誠に不思議な一行であった。
 一行が招かれて楚《そ》の昭王の許《もと》へ行こうとした時、陳《ちん》・蔡《さい》の大夫共が相計り秘かに暴徒を集めて孔子等を途に囲ましめた。孔子の楚に用いられることを惧《おそ》れこれを妨げようとしたのである。暴徒に襲われるのはこれが始めてではなかったが、この時は最も困窮に陥《おちい》った。糧道《りょうどう》が絶たれ、一同火食せざること七日に及《およ》んだ。さすがに、餒《う》え、疲《つか》れ、病者も続出する。弟子達の困憊《こんぱい》と恐惶《きょうこう》との間に在って孔子は独り気力少しも衰《おとろ》えず、平生通り絃歌して輟《や》まない。従者等の疲憊《ひはい》を見るに見かねた子路が、いささか色を作《な》して、絃歌する孔子の側《そば》に行った。そうして訊ねた。夫子の歌うは礼かと。孔子は答えない。絃を操る手も休めない。さて曲が終ってからようやく言った。
「由《ゆう》よ。吾《われ》汝に告げん。君子|楽《がく》を好むは驕《おご》るなきがためなり。小人楽を好むは懾《おそ》るるなきがためなり。それ誰《だれ》の子ぞや。我を知らずして我に従う者は。」
 子路は一瞬《いっしゅん》耳を疑った。この窮境に在ってなお驕るなきがために楽をなすとや? しかし、すぐにその心に思い到《いた》ると、途端《とたん》に彼は嬉しくなり、覚えず戚《ほこ》を執って舞《ま》うた。孔子がこれに和して弾じ、曲、三度《みたび》めぐった。傍にある者またしばらくは飢《うえ》を忘れ疲を忘れて、この武骨な即興《そっきょう》の舞《まい》に興じ入るのであった。

 同じ陳蔡の厄《やく》の時、いまだ容易に囲みの解けそうもないのを見て、子路が言った。君子も窮することあるか? と。師の平生の説によれば、君子は窮することが無いはずだと思ったからである。孔子が即座に答えた。「窮するとは道に窮するの謂《いい》に非ずや。今、丘《きゅう》、仁義の道を抱き乱世の患に遭う。何ぞ窮すとなさんや。もしそれ、食足らず体|瘁《つか》るるをもって窮すとなさば、君子ももとより窮す。但《ただ》、小人は窮すればここに濫《みだ》る。」と。そこが違うだけだというのである。子路は思わず顔を赧《あか》らめた。己の内なる小人を指摘された心地である。窮するも命なることを知り、大難に臨んでいささかの興奮の色も無い孔子の容《すがた》を見ては、大勇なる哉《かな》と嘆ぜざるを得ない。かつての自分の誇《ほこり》であった・白刃《はくじん》前《まえ》に接《まじ》わるも目まじろがざる底《てい》の勇が、何と惨《みじ》めにちっぽけ[#「ちっぽけ」に傍点]なことかと思うのである。

     十一

 許《きょ》から葉《しょう》へと出る途すがら、子路が独り孔子の一行に遅《おく》れて畑中の路《みち》を歩いて行くと、※[#「くさかんむり/條」、第4水準2−86−62]《あじか》を荷《にな》うた一人の老人に会った。子路が気軽に会釈《えしゃく》して、夫子を見ざりしや、と問う。老人は立止って、
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